Sunday 9 July 2023

1985年7月8日、モスクワ・ヤロスラブリ駅着、コスモスホテルにチェックイン

1985年7月5日にイルクーツク駅から乗ったロシア号は3泊4日を要してモスクワ・ヤロスラブリ駅に着いた。イルクーツク駅を出てから駅周辺以外、列車から人家が見えなかったが、4日目、モスクワに近づいているのだろう、農家やアパート群が車窓から見えた。



 

7月8日(火)、ロシア号は定刻通りの16:40にモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着した。ヨーロッパの都市にある駅と同様に、終着駅で行き止まり、その先が駅舎だった。特に案内はなく、インツーリストの窓口へ行くということだけだった。マリーナとはここでお別れとなった。筆舌に尽くし難いほどたいへんお世話になった。

 

 

ロシア号を降りてバックパックを背負ってホームを歩いて駅舎へ向かった。写真はその時の撮った。駅構内のインツーリスト窓口へ行くと既に連絡が入っていてここで待つようにと案内があった、その時に対応してくれたのも日本語ができる女子学生だった。こどもの頃、東京に住んでいてNHKのロシア語会話に出演していたという、現在はモスクワ国立大学アジア・アフリカ学部で日本語を専攻しているとのことだった。

タクシーが来たのでそれに乗るようにと案内があり、その彼女とはその時だけだった。白だったか覚えていないがボルガという大きなセダンだった。どこをどうやって走ったのか憶えていないが宿泊先はコスモスホテルだった。

https://www.hotelcosmos.ru/eng/

このホテルはモスクワオリンピックに際して新たに建設れた大規模なホテルで、VDNKhの前に位置していた。予定ではこのコスモスホテルに一泊して翌7月9日(水)の夜行列車ででキエフへ向かう予定になっていた。

レセプションでチェックイン手続きをしパスポートを預けた。翌日に取りに来るように説明があったと思う。大都市モスクワの大ホテルという印象(500室以上)、エントランスホールも大きく、レセプションにも人が多かった。

部屋の番号を告げられ部屋のある階でEVを降りて廊下の入り口に鍵おばさんがいた。ここで部屋の鍵を受け取るシステムだった。 何かねだられたようだったが、気に留める余裕もなく先へ進んだ、誰にでもそう強請っている感が強かった。

部屋はスタンダードなツインルームのシングルユース、壁側にデスクとTVもあった、今でも十分機能するレイアウトで広めだった。バスルームにはバスタブがあり、こちらも広くゆったりとしていた、もちろんお湯もでた。インツーリストホテル・イルクーツクで気が付いたが、バスルームにはスチームのパイプが洗濯物を乾かすように配置されていた。もちろん暖房用にはヒーターパネルが設置してあった。夏でもこの洗濯物用パイプには熱が通っていた。それと同じシステムのパイプがバスルームに敷設してあった。日本でもこのような設備があってほしいが、寒冷地ゆえの設備なのだろう。

部屋はVDNKh側で正面に宇宙飛行士記念博物館の宇宙征服者のオベリスクが、そして、モスクワOstankinoテレコムタワーが窓から望めた。前の通りはMira通りといい、VDNKh地下鉄駅もそこにあった。

夕飯をホテルのレストランで食べたと思うが、何をどう食べたのか記憶に残っていない、ビーフストロガノフの一つ覚えで対応したのかもしれない。同じテーブルに香港からの旅行者がいたと思う。

暗くなってからロビーに降りて人を観察をしていたら、ベリョースカ(白樺)というドルショップが、端にはカウンターバーがあり、女性が何人か座っていた。

ホテルエントランスに目を向けると民警が複数人立っていた。よく見ていると、女性は入る時に民警にチップらしきマールボロを渡しているのがわかった。それで、夜の蝶は出入り自由になっているようだった。このホテルは外国人専用なので、ここでは何でもUSD建てだった。

旅の汚れを落とし、バスタブにお湯を張り疲れを癒した。ホテルのベッドの上で寝られるのは何と心地よいのかと、疲れもありそのまま寝入ってしまった。モスクワまで来ているのだから、もっとモスクワをと頭は考えたが身体の疲れが勝っていた。

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