Saturday 13 April 2024

W210(1995−2001)パーツ販売サイト

古い車の部品がどんどんね上がっている、ヤナセではとてもとても常に整備とはいかない。ワイパーブレードなど、自前で交換できるものは自前で。バルブはアマゾンで調達できる。

前回の車検の時にヤナセでワイパーブレードの見積が前回より5割り増しだったか、非常に高く感じたので交換せず、それで自前で調達して交換すべく、パーツ販売店を検索、この北翔、メルセデス・ベンツに限らず輸入車のパーツを扱っている。

これから購入するが、ワイパーブレード、ゴムだけで1485円、ワイパーブレード一体で2750円とリーズナブル。ヤナセ、倍以上の見積もりだったような。ディーラーしかできない整備は致し方なく、ヤナセに持ち込むがこの程度なら自前でできそう。

W210パーツ販売サイト、Palca 

https://s-hokusyo.com/modules/ipit/

楽天店、ヤフー店もある。

https://item.rakuten.co.jp/auc-palca/c/0000000474/

Tuesday 2 April 2024

復活大祭(パスハ)

 復活祭パスハは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる。

大斎(四旬節)、復活祭の前にイエスの荒野での試みや十字架の受難を記念する「40日間」が設けられている。西方教会では、四旬節は復活祭の46日前にあたる灰の水曜日に始まる。

2024年の西方教会の復活祭は3月31日、正教会は5月5日である、この差はそれぞれの教会の暦の違いにある。西方教会は現代社会と同様にグレゴリオ暦を、他方、東方教会はユリウス暦を採用しているからである。

復活祭に至る期間は節制の期間である。

カトリック教会における大斎(だいさい)は、イエス・キリストの受難に心をはせるために行う食事制限のこと。「1日に1回十分な食事を摂り、あとの2食は少ない量に抑えること」が基本的な形である。

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/lent/

復活祭前の準備期間を四旬節と呼び、復活祭に洗礼を受ける志願者の直前の準備期間と考えられてきた。また、すでに洗礼を受けた信者も、この期間をとおして節制と回心につとめ、自分の生活を振り返ります。

四旬節は「40日の期間」という意味で、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来し、それにならって40日の断食という習慣が生まれた。実際には、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から四旬節が始まる。それは、主日(日曜日)には断食をしない習慣だったからです。灰の水曜日に教会では、回心のしるしとして頭か額に灰をかける「灰の式」という典礼がある。

キリスト教国では、灰の水曜日の直前に、「カーニバル謝肉祭)」というお祭りがあり、古代や中世期の信者たちは四旬節に肉食を断っていたので、その前にごちそうを食べて大いに騒いた。その習慣が今日まで引き継がれているが、教会とは直接関係はない。

断食については、完全に食事を断つというよりも、十分な食事を控えることと考えられていて、以下のように「大斎小斎」があります。大斎小斎を守る日は「灰の水曜日」と「聖金曜日(復活祭直前の金曜日)」、小斎を守る日は祭日を除く「毎金曜日」です。

  • 大斎
    1日に1回だけの十分な食事とその他に朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満18歳以上満60歳未満の信者が守ります。
  • 小斎
    肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって代えることができ、満14歳以上の信者が守ります。

正教会における節制期間は大斎(おおものいみ)といい、復活祭の7週前の主日である断酪の主日(赦罪の主日)の日没後から始まり、聖枝祭前日の「ラザリのスボタ」(ラザロの土曜日)の前日金曜日に一応の区切りを迎える。

https://nikolaido.org/2023geratlent/

ラザリのスボタ、聖枝祭を経て、受難週がある。それぞれの日を、聖大月曜日、聖大火曜日、聖大水曜日、聖大木曜日、聖大金曜日、聖大スボタと呼び、毎日特別の礼拝を行い、イエスのエルサレム入城から受難を経て復活するまでのそれぞれの日を象り記憶する。大斎期間中には祈りと食事の節制が行われ、喜びと浄化の時とされる。(カトリック中央協議会HPを編集)

正教会の大斎中に食べて良いものいけないもの

https://jp.rbth.com/lifestyle/84948-seikyokai-daisaichu-tabeteyoi-mono-ikenai-mono

日本ハリストス正教会

https://www.orthodoxjapan.jp/

バイカル湖のオームリ(サケ科)とリストビャンカ観光村

 「オームリО́муль」バイカル湖のみに生息するサケ科の魚、1985年年7月初旬、シベリア鉄道でナホトカからモスクワへ向う途中、イルクーツクに下車し一泊(7月4日着、5日発)、バイカル湖畔のリストビャンカ観光村ツアーへ参加した。

ランチも付いていたが、このバイカル湖産白身魚オームリの切り身を天ぷらのような小麦粉だけを付けてフライにした料理を、バイカルホテルのレストランで食べた。ヨーグルトがかかっていた、白身で美味しかった記憶だ。ホテル近くの桟橋にはそのオームリを獲る漁船が停泊していた。

写真はバイカル湖、リストビャンカ観光村、バイカルホテル等。

暁星学園フランス人教師と筆者、バイカル湖を背景に
バイカル湖畔の観光村Listvyanka 

木造のロシア正教会、ニコリスカヤ正教会 
木造住宅、窓の装飾に特徴があった

湖畔沿いの道路、右側がバイカル湖

 

「オームリО́муль」バイカル湖のみに生息するサケ科の魚オームリのフライをランチに食べたバイカルホテル。 

「川越史郎著 ロシア国籍日本人の記録」を読んでいたら、モスクワ海外放送ハバロフスク支局からモスクワ本社へ転勤が決まり、モスクワへ向かうシベリア鉄道がバイカル湖畔に一時停車する行に「オームリ」が紹介されている。「バイカル湖のほとりを走るうちにゆっくりと汽車が停車した・・・、バイカル湖畔の駅に汽車が着くと地元の女たちがプラットホームに立ち並び、オームリのバター焼きや燻製にしたものを大きなフキの葉に乗せて売っていた。その美味を先刻承知の清田君は飛び縄をほうり出してホームに飛び降り、ほかほかと温かいやつを両手にかかえ、そそくさと個室(クペ)に入ってきたものだ。」

私が乗った列車は、バイカル湖畔を走り車内から間近にあーこれがバイカル湖かと思いながら眺めた記憶があるが湖畔の駅には停車せずその次に停車したのはイルクーツク駅でした。この著者の場合、1951年か52年の夏とある、当時はそうだったのだろう、各駅での物売りは停車の楽しみであった。

 



海軍大学校跡地とURシティコート目黒

 山手線目黒駅前の海軍大学校跡地に「シティコート目黒」というURの集合住宅が建っている。山手線駅前にこの規模は稀有、住所は品川区上大崎2丁目、何が以前あったのか現在では知る由はない。

海軍大学校は1888年(明治21年、勅令第55号)が海軍大学校官制が制定され、築地旧海軍兵学校生徒館に開校、大正12年関東大震災で罹災し、1932年(昭和7年)8月27日、品川区の上大崎元陸軍衛生材料廠跡に移転した。

戦後、海軍大学校は廃止され、建物は国立予防衛生研究所や映画撮影所として使用された。予防衛生研究所は平成4年(1992年)に新宿区戸山に移転し、また映画撮影所も閉鎖、残った本社も平成14年(2002年)に移転し取り壊された。

敷地は目黒通りに面している、集合住宅が建つ前に何度も通っていたと思うが1990年代の記憶がない。

昭和天皇が海軍大学校の卒業式に出席する行幸の写真が港区郷土歴史館で開催中の港区今昔写真展高輪地区に展示されていた。

越後椎谷藩堀家下屋敷跡の表示はシティコート目黒前の目黒通りに建っているが海軍大学校跡地なり国立予防衛生研究所跡の碑は視野に入らなかった。