1985年7月5日(金)、
前日の7月4日21時ごろ、シベリア鉄道のロシア号はイルクーツク駅に着いた。このまま乗っていればモスクワ・ヤロスラブリ駅へ向かうが、横浜港からの多くの同行者がここで一泊し、バイカル湖を観て翌日の同じロシア号でモスクワへ向かう日程にしていた。私も同様に、このコースとした。ナホトカで鉄道に乗車したのは7月1日の夕刻、下車したのが7月4日の夕刻、途中、ハバロフスク駅で乗り換えたが。
この日はバイカル湖畔の観光村をバスで往復し、夕刻に昨日下車したイルクーツク駅から同じロシア号に乗車し、モスクワへ向かう予定であった。
朝、荷物は部屋に残したのかレセプションに預けたのか覚えていない。預けてから出かけるのが通常だろうが、朝食を済ませて部屋に出かける荷物を取りに戻り、再度EVに乗り、丁度、マリーナも乗ってきた、ということは私の部屋は上階だったのか、ロビーへ降りようとしてEVの扉が締まり、下がっていたが階と階の間でガツンという音とともに止まった。
軍服の人が非常電話で連絡したが、直ぐに動く気配はなかった。こういう時は待つのだとマリーナが説明したが、30-40分経っても動かず、他の人は焦る気配もなくロシア語でお話ししていた。その後、動き、何事も無かったかのようにロビーへ降りてバイカル湖行きのイカルスバスに乗った。ハバロフスク駅での一件もそうだが、何かと事が起きた、私的には、がEV事件は日常的なことなのか?
バイカル湖観光(Listvyanka)は外国人旅行者用に仕立ててあり、写真撮影の制限はなかった。自然や村の風景、木造家屋、バイカル湖の漁船など。
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