Saturday 1 July 2023

1985年6月29日から7月1日、横浜港大桟橋からナホトカ航路

1985年6月29日(土)

ハバロフスク号は横浜港大桟橋から定刻通りの11時に出航した。どんよりとした雲が垂れ込める横浜港から東京湾へ、ベイブリッジはまだない、船室は2段ベッドが向き合っている4人部屋でフランス人教師2人(暁星学園)、美大講師と私の4人であった。ドンドンという船のエンジン音が常に聞こえ、丸い船室の窓からは灰色の世界が広がっていた。

乗船したハバロフスク号の諸元は以下のとおり、西ドイツで建造された4772トンの客船で乗客333名、乗員97名が乗船できた。数値の体感との

1985年6月29日、ハバロフスク号は、ミハイル・カリーニンクラスの船舶で、乗客333名、乗員97名、総排水量トンが4772トン、8,300馬力のディーゼルエンジン、最高速度17ノット、全長122.15m、全幅15.96m、1961年に西ドイツで建造された旅客船である。
船舶諸元:
4,772GT LOA 122.15m LBP 110.01m B 15.96m Dght 5.23m
D1 MAN 8,300hp Service 17kt
Crew 97 Passengers: 333
Built in Mathias Thesen, West Germany in 1961
Flag: U.S.S.R.
One of MIKHAIL KALININ class ships
Broken up in China in 1989

どんな乗客だったかというと、乗船した時は見えなかったが食事のときに食堂に集まったときに、概ねこういう人たちだったのかということがわかった。日本人観光客が主で、日本在住の米国人やフランス人が本国へ帰国便として、ハンガリーの外交官一家の帰国便として、モスクワへ里帰りする父が日本人のロシア人母子、等であった。日本人観光客はヨーロッパへの往路にこのルートを利用していた、基本的に若者が多かった記憶だ。

セルゲイというインツーリストの添乗員が同行していて日本語で食事になるとアナウンスがあったのが、記憶に残っている。それと、ソ連邦の時差に合わせるためのアナウンスもあった。2泊3日の行程だったが、そんなに距離があるものかと思った。






1985年6月30日(日)

どのあたりで日を跨いだのかはっきりと覚えていないが、太平洋上だったのだろうか。2泊目の夜だと思うが津軽海峡を通過、船窓からイカ漁の漁火が見えたのは覚えている。 
 
甲板には小さなプールがあったが梅雨空で入れるような気温ではなく海風に当たる程度だった。ハバロフスク号船内ではアトラクションが用意されていた、夕食後だったと思う。

1985年6月30日、2泊目の夜、船内ではアトラクションが企画されていた。この女性はロシア民謡とダンスの会に出演した。カリンカは覚えている。最後の夜だったと思う、翌日の午後にナホトカ港へ入港した。F3.5-4.5の暗いレンズではこれが限界。丸顔の背の高いロシア人女性だった。キオスクではウォッカを売っていたと思う、飲めないので品揃えを見に行っただけ、その他、琥珀やバッジの類などを売っていた。絵葉書はなく、切手が便箋に印刷してあり折り畳めばエアメールになる郵便があったと思う。

二日目、ハバロフスク号船内での食事風景、太平洋岸を北上して津軽海峡へ向かっている頃か、左奥にモスクワへ里帰りするロシア人母と日本人父を持つ幼い男の子と女の子が座っている、もうこの子供たちは40歳くらいだろう。 

ハバロフスク号船内の食事風景と乗客、特に席は決まっていなかったが、概ね皆同じ席についていた。日本人観光客の他はソ連邦や東欧諸国へ帰省する人たちだった。ハンガリーの外交官家族も一緒だった。 




1985年7月1日 (月)

津軽海峡から凪の日本海を真西に航行し、アメリカ湾内へ入りナホトカ港へ滑り込むように着岸して下船した。15時過ぎだったような記憶。ポロシャツ一枚ではやや肌寒い、Sierra Designのマウンテンパーカを持ってきて正解、夏のヨーロッパ向けの万能上着、これを羽織れば肌寒さはしのげた。

セルゲイが湾内は軍事施設なので写真撮影をしないようにとのアナウンスがあったが、皆、シャッターを切っていた。セルゲイのお役目はここまでで、ダスビダーニャさようならと言って別れた。

埠頭の目の前に出入国管理事務所と税関の建物があった。この建物へ入り入国審査、税関審査だった。なんとなくこの建物のデザインが古めかしく、時代を旅してきたような感覚を覚えた。

入国審査ではパスポートとバウチャーを出し、係官はかなりしっかりとパスポートと本人を確認していた。入国スタンプは押されなかった、そういうものか、ソ連邦ではと思った。 

税関ではバックパックの荷物を出して詳細に検査が行われた。着替えとガイドブック、筆記用具、カメラとフィルムくらいしか携行していなかったが、フィンランドの友人に頼まれたフジのカメラ1984年発売なのでこのモデルだったのでは、カルディアDL-200デートを持っていたのでどうするのか聞かれたが、そのまま説明した。自分用に一眼レフを持っているので売るのではと思ったのかもしれない。質問の視点は外国から持ち込んだ物をソ連邦内で売らないだろうか、、その場合は課税だろうが、という印象だった。職員は英語で話してくれたが、それが聞き取れずに呆れられた。

建物の外にはインツーリストの添乗員と中型バス(西ウクライナのLvivで製造されたLAZ-697R、ハンガリー製のイカルスと思い込んでいた。)が待っていて鉄道駅(ナホトカ支線、極東鉄道太平洋駅)、5分程度だったが、まで下船した全員で移動した。バスの中でインツーリストの添乗員はロシア人と朝鮮系のハーフと自己紹介し、オプションツアーを申し込んだ人はバスに残ってくださいと説明した。私は申し込んでいなかったので、太平洋駅で降りた。







つづく  

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