Saturday, 10 October 2026

アジスアベバ-ジブチ鉄道

 Addis Ababa–Djibouti Railway、2017年当時、試運転中だった。中国メディアの乗車レポート。

https://www.facebook.com/share/v/1KPA8gVAiy/?mibextid=wwXIfr

ジブチとアジスアベバを結ぶ電化鉄道、2018/1/1に開業、主に貨物輸送、2日に1便、旅客がアジスアベ-ディレダワ間で運行。

建設は中国政府系の中国輸出入銀行が融資してCREC中国中铁股份とCCECC中国土木工程集団が建設、全長756km、高低差2000m。1917に開業したEthipo–Djibouti Railway(仏企業)から100周年。

路線は旧路線に並行している。ジブチ港はエチオピアの輸出入の約95%を担う、うちソマリランドのドラレ港がどの程度なのか、トラック輸送のみ。

建設は2011-2016年、標準軌、中国輸出入銀行がUSD3.0bill 融資、USD2.4bilがエチオピア区間へ、残りがジブチ区間へ支出。最終的にはUSD4.5 billに。追加融資は中国開発銀行及び中国商工銀行が融資。

Tuesday, 6 October 2026

谷底渋谷駅の雨水貯留施設

 >谷底渋谷駅、隠田川、宇田川の合流地点

渋谷駅の地下には、集中豪雨や台風による浸水被害を防ぐための大規模な雨水貯留施設「渋谷駅東口雨水貯留施設(愛称:あめちょ)」が整備され、2020年8月31日から供用開始。

施設の主な特徴・スペック

• 所在地:渋谷駅東口広場の地下(地下約25メートル)

• 貯水容量:約4,000立方メートル(25mプール約13杯分)

• サイズ:南北約45メートル × 東西約22メートル

• 役割:1時間あたり50mmを超えるような激しい雨(ゲリラ豪雨など)が降った際に雨水を一時的に貯水し、天候回復後にポンプで下水道幹線へ排水します。

• 背景:周囲を坂に囲まれた「スリバチ地形(谷底)」に位置する渋谷駅周辺は、過去にも度々浸水被害が発生していたため、再開発事業の一環として官民連携で建設されました。

渋谷をまもる雨水貯留施設

https://www.koho.metro.tokyo.lg.jp/diary/report/2020/08/25/01.html

渋谷駅周辺大規模再開発と連動した官民連携による雨水貯留施設の整備 https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/gesui/r-1-1-2_2021-Vol-45-pdf

Monday, 5 October 2026

ザンビアのユダヤ人入植者たちの忘れられた物語

 ザンビアのユダヤ人、昨年亡くなったスタンレー・フィッシャーで止まっていたが、新たな情報があった。本文G訳。

The forgotten story of Zambia’s Jewish settlers

https://www.cnn.com/2012/01/19/world/africa/zambia-jewish-history


ザンビアの都市リビングストンは、壮大なビクトリアの滝からわずか10キロの場所に位置しています。滝に近いことから観光地として知られていますが、アフリカ最古のユダヤ人入植地の一つがあったという、今では忘れ去られつつある歴史も持っています。


ヨーロッパ系ユダヤ人が初めてザンビア(当時は北ローデシア)を訪れたのは19世紀末のことでした。その多くが、当時の首都であったリビングストンに定住しました。初期の移住者はより良い経済的機会を求めた開拓者でしたが、後にはナチスの迫害から逃れてきた人々も加わりました。


ザンビアのユダヤ人人口は常に少なく、ピーク時でも約1,000人程度でしたが、その中には同国の経済や政治において重要な役割を果たした人物も含まれていました。最も影響力のある人物の一人がサイモン・ズーカスです。彼は1950年代の対英独立闘争において中心的な役割を担い、独立後には政府閣僚も務めました。


ナチズムの影がヨーロッパを覆い始めていた1936年、ズーカスの父親は仕事を求めてリトアニアから南部アフリカへと移住しました。彼は北ローデシアに定住してンドラという町で店を開き、1938年には家族も合流しました。


当時13歳だったサイモン・ズーカスは、英語もほとんど話せない状態で現地に到着し、イギリスの植民地支配下で黒人が二級市民として扱われる社会への適応に苦労しました。


「リトアニアでシオニスト運動に関わっていたこともあり、私はある程度、世界の情勢について知っていました」と彼は振り返ります。


最大の困難は、黒人に対する扱いの慣行に順応することでした。

サイモン・ズーカス(ザンビアのユダヤ人、元政府閣僚)


「私は、黒人を含む『虐げられた人々』に同情の念を抱いて現地に到着しました。最大の困難は、黒人に対する扱いの慣行に順応することでした。白人と黒人の扱いには、大きな隔たりがあったのです」。彼は、夜間外出禁止令の対象となっていた自宅の黒人料理人が、日没後に帰宅できるよう、毎晩許可証を作成しなければならなかったことを回想しています。


ズーカスによれば、英国の植民地当局者の中には反ユダヤ的な姿勢を示す者もおり、ユダヤ人が営業許可を取得するのを妨げるようなこともありましたが、全体としてはユダヤ人は歓迎されていました。新しく到着した人々は、それ以前に北ローデシアへ移住していたユダヤ人家族と共に、小さなコミュニティを形成しました。


Hugh MacMillan is a University of Oxford historian and author of “Zion in Africa: The Jews of Zambia.”


特にリトアニア系ユダヤ人は、19世紀末のダイヤモンドや金のラッシュの時期に南アフリカへ移住しましたが、中にはさらに遠方へと足跡を記した先駆者たちもいました。


「北ローデシアに早い段階で到着した人々は、極めて冒険心に富んだ『フロンティア・ピープル(開拓者)』でした」とマクミラン氏は語ります。「彼らは当初、牛の商人として、過酷で人里離れた奥地へと分け入っていったのです。」


最も有力なユダヤ系移民の一人に、リトアニア(当時はロシア西部)出身の実業家であるサスマン兄弟がいます。彼らは1901年、牛の商人として北ローデシアに到着しました。リビングストンに定住した彼らは、その後、銅鉱山や牧場を擁する一大企業帝国を築き上げました。


マクミラン氏によると、その兄弟はリビングストンの小規模なユダヤ人コミュニティの指導者であり、1920年代後半には同市のシナゴーグ建設を主導したといいます。


その建物は今も残っていますが、現在はキリスト教の教会として使われています。正面入り口のすぐ上にかすかに見える、ユダヤ教の象徴である「ダビデの星」の輪郭にでも気づかない限り、通りすがりの人がそこをかつてのユダヤ教の礼拝所だと知ることはないでしょう。


ユダヤ系の人々は、ザンビアの歴史において重要な役割を果たした。

ヒュー・マクミラン(歴史家)


1930年代までに、ザンビアには数百人のユダヤ人が居住していましたが、ヨーロッパでのナチスの台頭に伴い、新たなユダヤ人移民の波が押し寄せました。1938年から1939年にかけて、ナチスの迫害から逃れた約300人のドイツ系ユダヤ人が北ローデシアにたどり着き、リトアニアやラトビアからのユダヤ人も少数ながらこれに続きました。


1960年代初頭には、北ローデシアに約1,000人のユダヤ人が暮らしていました。しかし、1964年のザンビア独立後、白人の大規模な国外流出の一環として、その数は減少していきました。現在、ザンビアに残るユダヤ人は50人未満となっています。


ズカス氏は、ザンビアの独立運動において重要な役割を果たした活動家でした。軍務やケープタウンでの大学生活を経て植民地支配に反対する運動を展開しましたが、その結果、1952年に英国へ強制送還されました。その後もロンドンを拠点に活動を続け、1964年にザンビアが独立を達成した際には帰国を要請されました。


帰国後は政府閣僚を2度務めたほか、2001年には野党「民主主義・開発フォーラム(FDD)」の党首も務めました。


ザンビアのユダヤ人の中でズカス氏は最も著名な人物と言えるかもしれませんが、小規模なユダヤ人コミュニティ全体としても、この国の形成に貢献してきました。


「ユダヤ系の人々はザンビアの歴史、とりわけ商業の分野で重要な役割を果たしてきました」とマクミラン氏は語ります。「人口はごくわずかですが、その数からは想像できないほど大きな影響力を持っていたのです。」


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https://eastriver229.blogspot.com/2023/12/blog-post_27.html

Wednesday, 23 September 2026

JUKI hzl-fq45 針自動糸通し

 hzl-fq45の15分後に入れたんだが、梱包が不適切で緩衝材がしっかり入っておらず、天地指定もないまま発送されたようで、届いたら中で付属品、自動糸通しユニットなどが散乱していた。

確認のために動かしてみたが、先ず針自動糸通しの糸が通らず、ネット上の情報をもとに自分で調整してみた。そしたら、動作するようになった。

しかし、その次に、 針自動糸通しを使ったら全く糸が通らなくなった。ユニットの先をよく見ると、真ん中の糸を通す金属が歪んでいるように見えたネット上でもこれが歪んでいる場合は、その歪みを治すか、交換することが推奨されていた。

このユニット、楽天では見つけたが、JUKIのパーツサイトにはなかった。

自分の手で針に糸を通せば、そのまま使えるのだが、針自動糸通しがあるのに使えないのは気分が良くない。

Sunday, 20 September 2026

パナソニックのおどり炊き炊飯器(可変圧力IH炊飯器)、優れもの

おどり炊き炊飯器が、思いのほかおいしく炊ける。

最初は認識していなかったのだが、コロナ禍に入り、各種試しているうちに可変圧力「おどり炊き」というパナソニックの炊飯器に出会った。

パナソニックSR-PB104、

2015年製、可変圧力IH炊飯器、おどり炊き(備蓄米、3-4年の古米でも水分多めで炊くと新米同様な炊き上がり)、コロナ禍に入りヤフオクで購入、送料込みで5-6000円程度。


2025年(R7年)に米の流通量が不足して米価格が高騰、対策として政府備蓄米を取り崩して供給されたが、最初に供給された備蓄米(R5ーR6年産)は農協が買い占めて、パールライスとして売り出されたと思う。


その後、それでも5kg3500円程度度と高く庶民には受け入れ難いというので小泉農林大臣が5kg2000円で供給を支持、その備蓄米はR3-R4年産だった。


近所のスーパーでは備蓄米を見かけることはなかったが、ある時、王子のオーケーストアで税抜5kg2000円を見かけたので購入した。この時に近所にオーケーストアがあるのか検索したら池尻と戸越にあった。2袋ほど購入して実家へ持ち帰った。


その後、R7年産新米が出回る前になり、高かった農協のパールライスが東急ストアで割引され税込2500円/5kg程度で購入できたので、2袋購入した。


炊いたご飯の味は、古い備蓄米も新しい備蓄米も、多分、保存がしっかりしていたのだろう、通常の炊飯器と「おどり炊き」炊飯器とで炊いて味を比較したところ、後者のが全然おいしく炊けたことから「おどり炊き」を認識した。

他のメーカーの炊飯器を試していたいので井の中の蛙であるが、パナソニックの「おどり炊き=可変圧力IH炊飯器」は支持している。以下は後継機種、最新ではない。

Panasonic SR-VSX109-W 可変圧力IH 5.5合

Panasonic SR-VSX101-W 可変圧力IH 5.5合

現行機種は不明だが、こういう電気機器は最初に踏み上げ幅が大きく、その後はマイナー更新なので、やや古くても問題ない、というのが私の見立て。

Friday, 7 August 2026

銀杏街路樹の立ち枯れー町田の公団住宅

 町田市の町田山崎団地、団地いちょう通りのイチョウ54本、870mにわたり、枯損、5月に。原因は伐採したあるイチョウの切り株に新芽が出るのを防ぐために除草剤を塗った(2月)ことにより、根が地中で繋がっており他のイチョウへも除草剤が広がったとという説明。

イチョウの根は基本的には別の個体(他のイチョウ)と直接繋がっておらず、一本ずつ独立した植物として生息。ただし、地下の菌根菌のネットワークを介した間接的なつながりや、ひこばえ・根が接する「根接ぎ」のような例外的なケースを除き、個体間で根が融合して一体化することは通常ない。
根接ぎ、は弱った古木に根を接木することで該当せず。菌根菌の繋がりがあり、菌根菌(イチョウの根はアーバスキュラー菌根菌(AM菌)と共生)が、除草剤を運んだということなのか?
菌根菌は、根の細胞内に侵入し微細な樹枝状の構造(アーバスキュラー)をつくり、土壌中のリン酸や水分などを効率よく吸収しイチョウに供給し、代わりに光合成で作られた糖分を受け取る。このサーキュレーションに切株に塗った除草剤が乗ったのだろうか?不思議な出来事

団地いちょう通り 街路樹54本が枯れる 町田市の作業が原因

Monday, 27 July 2026

淀川製鋼所迎賓館(旧山邑家住宅)

1990年か1991年頃、神戸市灘区の知人を訪ねたときに、立ち寄った。知人の家が阪急線御影駅だったのでそこから数駅芦屋寄りの芦屋川駅が最寄だった、知人に会う前に立ち寄ったのだろう。

その数年前に何かの雑誌で、この旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)が紹介されていて知っていたからだ。修復を経て1989年から一般公開されていたので、その記事かも知れない。

1924年(大正13年)竣工、フランク・ロイド・ライトの原設計で、その後、弟子の遠藤新らが受け継いで竣工させた。芦屋川駅から10分も歩いたとは思えないが、芦屋川左岸上流側の小高い丘の上に建っていて、大阪湾が見渡せた。ライトの建築は、旧山邑家住宅までは、明治村に移築してあった旧帝国ホテルくらい、しかも小学生の時、だった。

1947年に淀川製鋼所が購入、1970年代に共同住宅への建替えが持ち上がったが、建築史研究者らの要望を受け入れて、保存することになった。一民間企業の懐の深さと英断が、このような素晴らしい建築を現在に伝えることとなっている。

2016年11月より保存工事のため閉館中であったが 2019年2月16日より一般公開が再開されている。もう一度訪れてみたいと考えている。

Friday, 24 July 2026

通関記録

通関記録

M&S, 24 July 2026, 購入金額20,016円

輸入消費税IMPORT EXPORT TAXES (TX)

1,000 JPY

合計金額

JPY 1,000

輸入関税IMPORT EXPORT DUTIES (DT)

700 JPY

合計金額

JPY 700

立替納税手数料DUTY TAX PROCESSING* (AV) (消費税を含む)

2,200 JPY

消費税額

200 JPY

合計金額

JPY 2,200

合計支払金額 (消費税を含む)

JPY 3,900

Monday, 15 June 2026

アルメニアの桑の実

 アルメニアの桑の実、白、白のが糖度が高い。ナゴルノカラバフ名産の蒸留酒アルツァフの原料。

FBのArmeniaより、

https://www.facebook.com/share/g/1E75EFuw69/?mibextid=wwXIfr

以下本文より、g訳。

桑の実は中国原産です。2000年以上もの間、中国と交易を続けてきたアルメニアの商人たちによってアルメニアにもたらされました。古来より、シルクロードは中国とヨーロッパを結び、桑の実はこの交易路を通じて世界中に広まりました。

桑の実は、その甘さから「ベリーの女王」と呼ばれる果実だけでなく、アルメニアでは「ドゥシャブ」と呼ばれる芳香豊かなジュースも人々に与えてきました。このジュースは、肺炎や風邪に効くと信じられています。


桑の実ジュースのこうした素晴らしい効能は、古代からアルメニアの人々に知られていました。ペルシャとインド征服の途上、アルメニアに滞在したアレクサンドロス大王も、その効能を高く評価しました。

数千年にわたる園芸の伝統と豊富なワイン醸造の経験を持つアルメニア人は、桑の実飲料の味と効能に驚嘆しました。

エレバンをはじめとするアルメニア各地を散策すると、街路樹として並ぶ巨大な桑の木や、庭先に顔をのぞかせている木、公園に涼しい木陰を提供する木々を数多く目にします。濃い緑色の大きな葉と、熟すと地面に落ちる甘い実で覆われた桑の木は、アルメニアの人々にとって大切な存在です。夏の間、低い枝から手で実を摘んだり、木を揺らしたり、木に登ったりして、美味しい実を味わうのは、アルメニアの大きな楽しみの一つです。


エレバンをはじめ、アルメニア全土で、桑の木は白から紫、黒まで、大きさも色も様々な甘い実をつけます。桑の実は初夏に熟し始め、シーズンの終わりまで実り続けます。

アルメニアでは、最高級の桑の実を味わうことができます。果肉は肉厚で、芳醇な香りと甘みがあり、ビタミンも豊富です。街角で桑の実が物足りない場合は、市場へ足を運んでみてください。

アルメニアには桑の実を中心とした豊かな伝統料理文化があり、桑の実をテーマとした祭りを開催するほどです。桑の実祭りは毎年開催されるイベントで、地元の人々にも観光客にも人気です。祭りでは、新鮮な桑の実を各種味わえるだけでなく、桑の実ジャム、シロップ、ウォッカ、乾燥桑の実など、様々な桑の実製品を農家から直接購入できます。


もしあなたが上質なアルコール飲料がお好きなら、ぜひ「アルツァフ」桑の実ウォッカを試してみてください。神秘的で、癒し効果があり、気分を高揚させてくれる飲み物です。

Tuesday, 9 June 2026

目黒本町のシェア畑

目黒本町4丁目の貸農園、シェア畑というらしい。廃業した銭湯の月光泉の道路を挟んだ反対側(北側)、ここは元々は農地だったと記憶している。この辺りでもこのような農地の存在は稀有で、それが数年前から、シェア農園として貸し出されている。町会名が月光町会と旧地名を反映している。

目黒本町周辺は、江戸時代、主に旧・碑文谷村や清水村の一部にあたり、畑や雑木林が広がる農村地帯でした。江戸への農産物供給地として機能し、街道沿いには農家が点在する農村でした。


1889年(明治22年)の町村制施行により、この地域は東京府荏原郡の村域となり、近隣では目黒村や碑衾村が成立した。


東急目黒線の前身である目黒蒲田電鉄の開通(1923年)が大きな転機となり、西小山駅周辺から住宅開発が進んだ。特に同年、1923年の 関東大震災後、都心から郊外への人口移動が進んだ。目黒本町周辺は震災被害が比較的少なく、交通の便も良かったため住宅地として急速に発展した。大正末から昭和初期にかけて耕地整理や宅地分譲が進み、農地は次第に住宅地へ変わっていった。


1932年(昭和7年)には荏原郡が東京市へ編入され、この地域も東京市目黒区の一部となった。


1966年(昭和41年)の住居表示実施によって、それまでの東町・月光町・向原町の全域と、清水町・碑文谷の一部を統合し、「目黒本町一丁目~六丁目」が誕生した。


目黒本町の地名の由来は、地域的にも目黒の中心にあり、上目黒・中目黒・下目黒はあるが「本町」はないということで住居表示実施の際に、住民および町会の提案・投票を経て採用された地名である。


投票の結果、1位は「清水ヶ丘」であったが、旧称に由来するため不採用となり、2位の「目黒本町」に決定された。その他の候補には「南目黒」や「南が丘」の案があった。