Sunday 25 February 2024

富士山と横浜ベイブリッジ

 2024/2/28のTG682、BKK-HNDからの富士山、やっとおがめました。羽田に着陸なので横浜ベイブリッジもしっかりと観れました。









Le Royalの裏のレストラン街

 このホテル内に旧JBIC事務所があったと聞いている。

3サークルのこのLe Royal Ammanにはあまり縁がなかったが、このホテルの裏側に良さげなレストランが多くあった。アルメニア・レバノン料理レストランLevantもありよく行ったが事務所の職員はここがアルメニア料理との認識をしていなかったな。

アンマンにもアルメニア人コミュニティがありアルメニア教会も市役所の先の丘の上にある。彼らは第一次世界大戦期にオスマン帝国のアルメニア人がこの地に逃れてきた末裔。

19世紀にはロシア帝国カフカスのチェルケス人がオスマン帝国領へ逃れてきており、人口が少ない地区へ入植している。アンマンには1軒だけチェルケス料理レストランがあった。



ハッサク(八朔) Citrus Hassaku Group

 2023/2/25

ハッサク(八朔) Citrus Hassaku Groupと言う柑橘類、妹の嫁ぎ先の空宅地に便宜的に植えられ、実を付けていたのでお裾分けをいただいた。このハッサク、尾道に原木がある。万延年間(1860年)、村上水軍の城跡、青影山の南麓(広島県尾道市因島田熊町)に、浄土寺の第15世住職、小江恵徳上人の生家があり、その近くに生えた雑柑が「ハッサク」の原木であった。

因島には古くから多種類の雑柑があり、温暖な気候で柑橘類が育ちやすい自然条件が整っていたほかに、村上水軍が東南アジアまで勢力を広げ活躍した際に遠征先から苗木や果実を持ち帰ったことも尾道原産の背景にあるようです。柑橘類は実生して交配を繰り返すと雑柑となり、その中の一つがハッサク(八朔)、

八朔と言う名は、八月朔日の略である八朔、旧暦の8月1日のことである。今は2月なのでかなりズレている。

ハッサクはナツミカン(夏蜜柑、夏代々)よりも、甘夏ミカン(川野夏代々、1935年に大分県の果樹園、川野により夏ミカンから選抜)よりも甘い。ナツミカンは江戸時代中期、黒潮に乗って南方から、山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元民(西本於長)が播き育てたのが起源であり、今でも山口県はナツミカンの産地である。浜松は三ヶ日みかんで有名ですが、湖西市の道の駅潮見坂で地場産の甘夏ミカンをたくさん販売していた。

柑橘類には目がないのです、というわけであっという間にいただきました、若干、昨日のビジネスランチの手土産に持っていきました。





Saturday 24 February 2024

2012年2月、モスクワ赤の広場

2012年2月のモスクワ赤の広場、雪が溶け氷結してアイスバーンになっていた。その残雪のおかげで非常に明るかった、Nikon D3+17-35mmを手持ちで撮ったが、手振れしていることだろう。


この時はアルメニアYerevanの帰路、この時は成田からアエロフロートで往復した。往路は乗り継ぎでYerevanへ移動し、復路はモスクワで数日滞在することにした。モスクワはこれまで長期には滞在する機会なく、少しでも散策をしようとの意図だった。エレバンとタシケントには長期で滞在したが、モスクワはトランジットが多かった。


2010年にロシアの1年の数次ビザを取得していたので2011年、2012年も取得したのだろう、それが最も効率が良かったからだ。仕切り直しと思いながら時間が経過し、さらにコロナ禍になり次が延び延びになっている。


日本からはアエロフロートは運休しているが近隣諸国からは飛んでいるはずだ。

https://eastriver229.blogspot.com/2012/02/blog-post_2520.html

モスクワ赤の広場のレーニン廟とクレムリン










Friday 23 February 2024

スラバヤの思い出

 A view from The Westin Surabaya

1995/96年のスラバヤです、会社の同僚・上司はインドネシア専門と言えるような人が多かったが私としてはこの時がインドネシア初で言葉も含めて苦労した。


最初、Hyatt Regency Surabaya(現Bumi Surabaya)に宿泊していた。その近くにテニスクラブがあった、多分、その前を車で通りかかって知ったのだろう。今はグーグルマップをみても見つからない、川の近く、政府系ビルに建て替わったのだろうか。週末、上司達はゴルフに出かけていたが私はこのクラブへ徒歩で、ビジターでもOKだった、コーチは愛嬌のあるこの人、1時間練習すると大汗をかく、これは気持ちよかったが滞在期間が短かったので数回通っただけの記憶だ。

スラバヤでは事務所が郊外にあり毎日その事務所へ車(トヨタのキジャン)で通勤し、移動は車が多く徒歩では出かけることは少なかった、ホテルから北が旧市街のようだったが、これは後から知ったことだ。

写真はスラバヤの街並み、オレンジ色の屋根が特長だった。オープンしたばかりのThe Westin Surabaya(現Marriott)のペントハウスからだ。途中でホテルを変わった、上司がゴルフ場でここのマネージャーと一緒になり紹介を受けたとのこと、The Westin Surabaya (現在のMarriott)のサービスアパートメントがHyattと比較して安かったからだ。当時のインドネシアは地方でもホテル代は高く、ここで月1800ドル程度だった。このホテルの先の角を曲がると食堂が並んでいて、その中の潮州料理屋の海鮮料理が美味しくて上司とよく通った。イカのクイリスピーフライ、海鮮スープなどなど。

Hyatt Legencyに泊まっているときのある週末、夕食時にレストランで20代の女性達と知り合った。英語でコミュニケーションが取れたので興味本位でいろいろお話をした。勤務終了後に友達同士で来ていた。政治やプライベイトな話は口が重かったので部屋へ招いてお茶をした。一人の派手目の彼女はクリスチャンでカレッジを卒業、もう一人の彼女はインドネシア人と中国系のハーフ、大学を出て今は企業で働いているなどなど、政治のことになると食い付きが良かった、国内政治に関心が高く、部屋の中ということもありかなりストレートな意見を述べていた。

スラバヤは旧日本海軍の軍港があった、戦時中、Majapahit Hotel(アルメニア系サーキース兄弟が1911年に開業)を接収、ヤマトホテルとして使っていた。当時、マンダリンが入手して改装中で1998年にホテルとして再オープン予定だった。2006年にCipta Cakra Murdaya (CCM) groupが買収。マドゥラ島とを繋ぐスラマドゥ橋(2009年完成)は当時アイディアレベルだったが今や現実のもとなっている、インドネシア企業と中国企業との合弁で建設した。

数日後に連絡があり、当時はスハルト政権末期(1998年10月まで)で反政府勢力の活動がスラバヤでも盛んでその集会へ行くので一緒にどうかと誘われ、ロビーで待ち合わせして出かけた。

軽四輪を改造した乗合タクシーでスラバヤの街をどこをどういったのかわからないが、あるカフェに着いた。学生や若者などが多く集まっていた、会話はさすがにインドネシア語なのでわからなかったが彼女が要旨を説明してくれた。つまり、現政権は腐敗し私腹を肥やしている、そして、国民生活は厳しくなる一方だと、そのスラバヤの熱さが強く印象に残っている。

その後、1997年のアジア経済危機により通貨ルピアの大幅な切り下げを余儀なくされ経済的に甚大な打撃を受け国民生活は苦しくなる一方、それまでのファミリーへの利益配分(マダム・ティエン・パーセントと大統領夫人が呼ばれていた)が国民の怒りをエスカレートさせ、1998年の大統領選に7選していたもののジャカルタをはじめとする地方都市を含み学生による反政府デモが激化、一般市民を巻き込んで大規模、暴徒化したことを受けて1967年以来、スカルノから禅譲されたインドネシア第2代大統領職を1988年5月に辞任表明し、ハビビ副大統領が昇格した。

この時期のことは既にスラバヤを離れており日本か仕事先で聞いていたのだろう。1999年6月、ハビビ政権が新たに制定した総選挙でメガワティ率いる闘争民主党にゴルカルが破れ、その後の国民協議会でワヒドが第4代に選出され、メガワティが副大統領が就任した。

2001年にワヒド大統領が国民協議会で弾劾、解任されるとメガワティが第5代大統領に昇格した。メガワティは初代大統領スカルノと第一夫人ファトマワティの長女であり、9・30事件以降、辛酸をなめていた。

スカルノはスラバヤ生まれであったこともあり、東ジャワの州都スラバヤでは反スハルトが強かったのであろう。その時、ストレートに熱い若者たちの鼓動を感じた。以後、インドネシアと縁がないがスラバヤは再度ゆっくり歩いてみたい街だ。

Tuesday 20 February 2024

Windows11でSMB1.0有効にしネットワークドライブを割り当て

ThinkPad T490sを購入したのでアプリをインストールしている。

ネットワークドライブ割り当ての際にSMB 1.0が無効云々というメッセージが表示され接続できない。

これは、Windows11ではデフォルトでSMB1.0が無効になっているので有効にする必要がある。その方法は以下のウェブのとおり。

https://paso-kake.com/it/windows11/11426/

上記ウェブでは、「設定>アプリ>Windowsのその他の機能」との説明ですが、これは表示されない。

実際には、検索した結果、以下の通り。

設定>システム>オプション機能>Windowsのその他の機能



「Windowsの機能の有効化または無効化」が開くので「SMB 1.0/CFSファイル共有のサポート」にチェックを入れ「OK」をクリック。

インストールが始まり、完了して再起動。

再度、ネットワークドライブの割り当て、

\\192.168.0.3\user

OKを押すとネットワークが表示され割り当てられた。




Sunday 18 February 2024

品川駅高輪口のタクシー乗り場

 品川駅高輪口(京急品川駅前)、以前なら改札口の前がタクシー乗り場だったが現在は工事中で第一京浜を渡って250m先との案内。

だが遠過ぎて駅前タクシー乗り場の意味なし、横断歩道の脇で第一京浜を流れているタクシーに手を挙げれば止まってくれる。

50m手前まで行ったがタクシー止まっていないので走ってくるタクシーに手を挙げた。この荷物、やはり大汗かいた。ホームから改札口まではEVがあるので問題ないのだが。ウチまで3.7km、タクシー運転手も変な場所なんです、と。











バンコク・スワンナプーム空港のSAT-1

 今回のバンコク・スワンナプーム(Suvarnabhumi Airport )からの羽田便のTG682はS118Aのゲートからの搭乗だった。

昨年10月もそうだったが、閑散としていたのはオープンしたばかりだだからだった、スワンナプーム国際空港の新サテライトターミナル、SAT-1は、2023年9月28日のオープンだった。Sはサテライトのイニシャルのようだ。

メインターミナルからSAT-1へはAPM(Automated People Mover, Siemens)というシャトルで1km移動する。出発15分ほど前に着いたが搭乗前だった。










素早いTG585便

 TG584, 19:35が20:07に到着して折り返しのTG585、搭乗が20:55完了なので定刻20:55より数分遅延して離陸、素晴らしいTGの対応、定刻22:00に着きそう。

プノンペン便は韓国系2社とも慢性的遅延だったのでTGにして正解。






TG585便のチェックインとラウンジ

 プノンペン空港、寒さに耐えきれず鼻水をすすりながらチェックイン、TGはBKKでの乗継時間が短いので席を前方にとリクエストを出しておくと概ね通る。なぜ日本の旅行代理店はリクエストを出してくれないのか?

荷物は合計で43kgだった、スポーツバックに嵩張る衣類を入れて16kg、ということはスーツケースが27kgになる、何を入れたのか?出国審査を済ませてラウンジまで来たら寒さは出国ロビーほどではなかった、階を上がったからなのか。

とりあえず下着とソックスを着替えてここの夕飯に、麺、以前は米粉麺だったが、玉子麺になっていた。今夜はこれでお仕舞い。搭乗まで30分ある。鼻水、ちょっと回復。出発ゲートが08だ、今回は。

バンコクからのTG584が未だ到着していない、35分遅延とのこと。ということはTG585も遅れそう。