Saturday 24 June 2023

ソ連邦時代のキエフの思い出

 キエフの思い出

1985年7月10日、モスクワ・キエフ駅からドニエプル号という夜行列車でキエフに翌朝着いた。それから、インツーリストの事務所へ行き、ボルガのタクシーでホテルへ。この写真は駅を出たところ、振り返って後部座席から駅舎を撮影した。

1985年7月10日、早朝、モスクワから乗った夜行列車ドニエプル号は「ゴトン、ゴトン、ゴトン」とドニエプル川の鉄橋をゆっくりと渡り、その先のキエフ駅へ滑り込んで行った。ソ連国内では自由な移動が制限されており、駅や空港に付いたらインツーリストオフィスへ行くことになっていた。そこには、予約した私の名前があり、予約したスケジュールに沿って交通機関やホテルが手配されていた。それはそれで素晴らしいと思ったが、予定を変更するとどうなるのか、試す勇気はなかった。

というのもキエフに至るまでに既に警察(民警)の世話になり、これはハバロフスク駅前で写真を撮っていて警察署へ連行され、危うくシベリア鉄道に乗り遅れるところ、ハバロフスクに置いてきぼりにされかけたところを間一髪で予定通りのロシア号に間に合ったのだ。正確には1時間程度もロシア号を待たせた、これは、添乗していたインツーリストのスタッフ(当時はウラジオストク極東大で日本語を学んでいた女学生マリーナ、夏休みだったので国家に奉仕するアルバイトだった)が、ぎりぎりまで待たせてくれたからに他ならない。というのは民警のUAZ(ジープのようなデザイン)でホームへ走り込んだ時、私のバックパックが降ろされ用としていたからだ。

ドニエプル号がキエフ駅のホームに停車し、東独製の4人用の寝台コンパートメントからバックパック用の荷物を担いで列車を降り、ゆっくりと周囲を眺めながら駅のインツーリスト事務所へ行った。あまり記憶に残っていないのはその風景に慣れてしまったのだろうか、インツーリストで少し待っていると、タクシーが来たと英語で知らせてくれた。

モスクワでは日本語を話すスタッフ(モスクワ国立大学の女子学生で東京に住んだ経験があり、NHKのロシア語に出演していたと話してくれた。)がいたが、キエフでは英語だった。そして手配されたボルガのタクシー、白が汚れて燻んでいた記憶だが、キエフの中心に位置するインツーリストホテル(多分)へ向った。どこをどうやってどの程度の時間をかけてホテルに辿り着いたのか覚えていないが、駅を出た時に振り返ったら駅舎全体が見えたのでシャッターを押した。この角度だと後ろの窓越しだろう、この写真も恐る恐るシャッターを押したことは間違いない、なのでシャッターを切ったのは1枚か2枚だけだっただろう。

キエフの朝は曇っていたが、その後、晴れた。インツーリストホテルのツアーデスクで市内観光バスがあるのというので半日英語ガイドコース(確か6米国ドル)に乗った。キエフはマロニエの花が咲きほこり、緑の中に都市があった。

 途中、ソ連構造主義の巨大な彫刻が建っているドニエプル川を見下ろす丘があり、眼下にその日の朝、鉄道で渡ってきた鉄橋が見え、その先に白い巨大なアパート群が見えた。キエフ大学の前も通った。

 疲れていたのでバスに乗ると直ぐにウトウトしてしまった。今思えば聖ソフィア大聖堂ではなかったかと思うが教会に立ち寄った。こんな塔があり説明ではソ連は宗教を否定しており今は科学博物館として利用している、と表明的な説明だった。ここまでで、その奥には行かなかった。そう言えばバスツアーで一緒だったテキサスからの米国人の女性二人連れ、少し話したが、開口一番、ヘイボーイだった。当時、言葉がそれほど出来ず、切込めず、残念ながら。

 このバスツアーに行くのに慌てて部屋を出たのでカメラを置いてきてしまい、ツアー中の写真がない。それで午後から散策に出た時、途中に本屋があったのでキエフの写真集とソ連邦の地図を買った、かなり精緻だった。

キエフの記憶より。

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