「どうする家康」第22回 設楽原の戦い、「長篠の戦い」と言われているが決戦地が設楽原であることから長篠・設楽ヶ原の戦いとも記される。NHKもそれに気付いて長篠城のある長篠ではなく、「設楽原の戦い」にしたのかは定かではない。
戦国時代の1575年6月29日、天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が設楽原で決戦を戦った合戦である。信長の長篠での勝利は新戦法である鉄砲3千丁とも言われる三段撃ち、現代版ジャベリンやハイマースに相当するのか、が勝因とされるが、政治的には信長が天下人として台頭し、家康は遠江・三河を磐石にし、越後上杉内乱、関東諸族のパワーバランスの変化から織田徳川連合軍が侵攻し武田氏が滅亡した。
さて、決戦の舞台は現在の愛知県新城市、連吾川を挟んで対峙した、この場所を一望出来る丘がある。それを知ったのは亡き母の見舞いに一時帰国時に東名・新東名で実家を往復したとき、新東名の浜松SAで休憩し走り出したところ、フロントガラスにゴミが付き取れなかったので次の長篠設楽原PA(下り)に入った時であった。まさにPAの端に信長陣地跡があり、決戦地の設楽ヶ原を丘の上から一望出来た。歴史上の長篠設楽ヶ原の戦いは認識していたが、この決戦の舞台が目前に広がっていることは改めて認識した。
「どうする家康」のおかげでこのPAは賑わっていることだろう、次の機会に寄ってみよう。
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