あゝ懐かしのパナマ🇵🇦運河、この映像、よくできている。何度かミラフローレス閘門にパナマシティから足を運んだ。1994/95だと思う。遠くからだと陸上を船が航行するように見えた。当時、運河地帯は米国統治下で米軍南方方面軍のHQが置かれていた。パナマは米国の国策でコロンビアから独立させた国家であり、独自通貨の名称はバルボアだったが、紙幣は米国ドルを仕様、コインだけパナマ独自のデザインだったが、サイズや重量は米国のと同じだった。
Friday, 30 June 2023
Thursday, 29 June 2023
1985年6月29日、ナホトカ航路で横浜大桟橋から出航(日程)
1985年6月29日
横浜港大桟橋からナホトカ航路で出航し、ナホトカからシベリア鉄道ナホトカ支
線、シベリア鉄道ハバロフスクを経てモスクワまで鉄道でユーラシア大陸を横断
し、そして、キエフに足を延ばし、レニングラードからフィンランドへ出国した。
ここまでで17日間、ユーラシア大陸での距離感を肌で感じた。
その時の日程。14日間、ソ連邦に滞在したことになる。
1.1985年6月29日(土) 横浜11:00-> 船内 横浜港大桟橋から出航
2.1985年6月30日(日) -->-->--> 船内 津軽海峡を経由
3.1985年7月1日(月) -ナホトカ-> 列車内 午後ナホトカ港着、バスで極東鉄道・太平洋駅へ
4.1985年7月2日(火) -ハバロフスク-> 列車内 極東鉄道ヴォストーク号からシベリア鉄道・ロシア号
へ乗り換え
5.1985年7月3日(水) -->-->--> 列車内 シベリアの原野をひた走る
6.1985年7月4日(木) -イルクーツク イルクーツク 夕方イルクーツク着、アンガラ河畔に位置する
インツーリストホテルへ
7.1985年7月5日(金) イルクーツク-> 列車内 バイカル湖畔見学、午後一日遅れのロシア号へ
8.1985年7月6日(土) -->-->--> 列車内 列車は走る
9.1985年7月7日(日) -->-->--> 列車内 列車ひたすら走る
10.1985年7月8日(月) -16:40モスクワ モスクワ 午後4時40分モスクワ・ヤロスラブリ
Yaroslavli駅到着
11.1985年7月9日(火) モスクワ--> 列車 夜行列車ドニエプル号でキエフへ
12.1985年7月10日(水) -キエフ- キエフ 早朝キエフ着
13.1985年7月11日(木) キエフ-->モスクワ モスクワ 午後、国内フライトを利用してモスクワへ
14.1985年7月12日(金) モスクワ--> 列車 夜行急行列車レッドアロー号でレニングラードへ
15.1985年7月13日(土) -レニングラード レニングラード 早朝着
16.1985年7月14日(日) レニングラード- 列車 ペトロドヴォレツへ 夜行列車でフィンランドへ
17.1985年7月15日(月) --> ラハチ ソ連邦出国、フィンランド入国
ハバロフスク号諸元
1985年6月29日、横浜港大桟橋からナホトカ航路で出航、シベリア鉄道でモスクワへ
1985年6月29日、予てより準備していたナホトカ航路でヨーロッパへ旅立った。
このルートは、シベリア鉄道を経由するため、当時としては経済的に割高になっ
ていたがかつてはヨーロッパへの最安値のルートだった。しかも、片道切符なの
で現地で往路を調達しなければならない。
1980年代まではこんな旅行が出来た時代だった、今では想像も出来ない。当時、
何を思い出航したのか、何かに駆り立てられるようにだった。ネットもないのに
よく具体的な情報を得られたのか、語学もろくに出来ないのに。
そんな旅、時は時は1985年6月29、土曜日、当日は梅雨どきのどんよりとした横
浜港大桟橋、出航時刻は11:00だった。学生時代の友人が仕事の合間に両国のア
パートから横浜の大桟橋まで送ってくれた、そして、出航の際にテープを投げて
くれた、たいへん有難がたかった。
当時のソ連への渡航は代理店に依頼してテレックスで予約確認をしてインツーリ
ストに円建てで支払うバウチャー制度、それを持って麻布狸穴町の領事部へ行き
査証を申請受領した。
また、この旅行のために一眼レフカメラCanon AE-1 Program+35‐75 f3.5-4.5を
中古で調達した。Nikon F2を考えていたが手が出せる価格ではなかった。ど素人
というか、レンズの選択もよくわからないまま(標準の明るい単焦点であったな
らばもう少し写真が変わっていたのかもしれない)、そして、試し撮りもせぬま
ま出発となった。フィルムはKodachromeとEktachromeにした、リバーサルの色の
質がいいという評判を聴いていたからだ。しかし、KodachromeとEktachromeの違
いをそれほどりかいせず、のあり様。その他、友人が餞別代りにと工事現場で使
うネガフィルムを何本かもらった。最初にネガフィルムから使い始めた。
大桟橋の出入国管理事務所で出国手続きをした。横浜出国のスタンプをパスポー
トに押された。それからハバロフスク号の船内へ入った。インツーリストのセル
ゲイという添乗員が日本語で案内した。
船室は2段ベッドが向かい合う4人部屋だった。申し込んだ船室は最安値だったが、
空いていたので埋まっておらずワンランク、グレードアップしたとの説明だった。
重い雲が垂れこめた横浜港大桟橋、出航間際に甲板にでて友人に手を振った、銅
鑼が鳴り響く中、多くのテープが投げられ、友人も投げてくれた。こんなシーン
は映画の中だけだと思っていたのに自身が体験するとは思いがけない感動ものだ
った。ハバロフスク号は、定刻通り、11時に横浜港を出航した。
離岸したハバロフスク号は横浜港内を真っ直ぐ東京湾へ、この時、横浜ベイブリ
ッジは完成しておらず、もしかしたら橋脚の工事中だったのかもしれない。東京
から太平洋へ出てから左旋回し、北上、津軽海峡を目指した。
ナホトカ港には7月1日着なので2泊3日の船の旅となった。津軽海峡を通過したの
は夜半、船窓からイカ釣りの漁火が見えた。これは6月30日に夜であろうから、
その前に太平洋上で夜を過ごしていることになる。
下記に日程を記しておくが、ナホトカ航路は2泊3日、ナホトカからハバロフスク
までの鉄道が1泊2日、ハバロフスクからイルクーツクの鉄道が2泊3日、イルクー
ツクからモスクワが3泊4日であった。スケール感が大陸的であることは間違いな
い。
もちろんソ連邦への旅行は初めてで海外もその前に一度ヨーロッパへ行っただけ
だったので何かとアクシデントというのかソ連邦では日常的だったのか、私的に
は記憶に残る出来事が起こった。また、ロシア人の人となりもこの旅行を通して
少しは肌で感じることができた。
7月1日にナホトカでソ連邦へ入国、シベリア鉄道でモスクワへ、途中、イルクー
ツクでバイカル湖を見に一泊、モスクワまでさらに鉄道で、そして、キエフを夜
行列車と飛行機で往復、モスクワから夜行列車でレニングラードへ移動、7月14
日、レニングラードからの夜行列車でフィンランドへ出国した。ソ連滞在中、い
ろいろなことを見聞きしいろいろなことを体験した。今でもその時の光景ははっ
きりと覚えている。
シベリア鉄道ではインツーリストの添乗員、マリーナ(当時、ウラジオストク極
東大学生、夏季アルバイトか義務なのか)にいろいろと話を聞けたし、モスクワ
でキエフから戻った時にコスモスホテルで再会し、翌日モスクワをバスや地下鉄
を乗り継いで歩き回れたことは幸運であったし、人との接し方を学んだようだっ
た。
写真は街中や人々を撮りたかったが、結果、少ない。ネガの一部は紛失している
ようだ、残念の極み。ハバロフスクで民警にご招待されたことからネガ1本が暴
露され、その後はシャッターを切るのを大いに躊躇った。
旅行予約証であるバウチャーはソ連出国時に回収されてしまった、これは予想し
ていなかった。そして、入国時とおなじように出国時もスタンプは押されず、だ
った
http://1985.iio.org.uk/index.html
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.2097315864782&type=3
29 June 1985,
I embarked on a trans Eurasian journey by USSR's ship "Khabarovsk" from Yokohama to Nakhdoka on 29 June 1985, it was crowded weather, at 11:00, which was 2 nights and 3 days cruise.
It was the starting point of my journey of self discovery across Eurasia continent by surface. I disembarked the ship at Nakhdoka Port and entered to USSR, then traveled to Moscow by Trans-Siberian Railway (Khavarovsk is the actual point but it was prohibited to foreigner to enter the area.) including a stop over at Irkutsk for a night in order to visit Lake Baikal. Then I made round trip to Kiev by railway and air and I traveled to Leningrad by railway, After Leningrad, I finally departed to Finland by an over night train on 14 July 1985. Various things and accidents were happened during my stay in Soviet Union but I was really impressed, found and enjoyed by those things. I still remember clearly what happened there and what I saw.
I met Marina again in the afternoon of 11 July 1985 by chance at the entrance of Cosmos Hotel in Moscow when I returned to Moscow from Kiev. She was an Intourist tourist attendant who took care of us from Nakhodka to Moscow on the Siberian Railways. Then we went to VDKh in front of the hotel and we were very much enjoyed walking and eating ice cream under white night, and she offered me one day private Moscow tour, so the following day, 12 July 1985, we explored some places in Moscow by the public transportation such as metro and bus with 5 kopek per ride. It was fantastic days in Moscow with Marina.
These pictures were taken by Canon AE-1 Program+35‐75 f3.5-4.5, it was my first SLR with films such as Kodachrome, Ektachrome and negative films, and scanned.
Yokohama> Nakhodka > Khabarovsk> Irkutsk> Moscow Yaroslavli > Kiev > Moscow > Leningrad >Lahati
タクロバンの台湾茶屋
台湾茶屋、タクロバンの中華料理屋、ランチをよく食べた。でもこの写真は土地の魚スープですね。
I fully agree with BEST FOOD, but this is a Chinese or Taiwanese restaurant, and the picture shown is typical fish soup and steamed rice.
アルマティ、2009年4月17日
【24時間営業の大きなスーパーマーケットを発見】(mixi2009年4月17日より)
アルマティのTsUMの近くに大きな24時間営業のスーパーマーケットを発見、店の中を覗いたらあれもこれも買わなければと思い始め、キッチン用品、バス周り用品、食料品などなどたくさん買い込んでしまった。ああなんと情けない都市から出張してきているのだろうかと思わざるを得ない。(補足:タシケントの品揃えで困ることはない。)
Supermarket Yubileynyy(anniversary), Abylai Khan Ave 74, Almaty
タシケントってそんなに品物がないのといわれても仕方がない、いや、アルマティが豊富過ぎるのかもしれない。アルマティではどこでも買えるものがタシケントではどこでも買えないのだから。それに、ここは値段も比較的リーズナブルだ。そういえばグルジアワインも850KTZ(550円程度)からあった。
それから、TuSMでドイツ製の三得包丁も調達した。商品名がSantoku Messer (Knife) 3,100KTZ、ドイツ語も英語もSANTOKUなんだなと納得。オマケだと思った赤く塗られたペティナイフは400KTZを徴収された、が、切れ味は良かった。
イスタンブルの五味Istumi
【Leventの五味(イツミ)でランチ-イスタンブル】(mixi2009年4月7日より)
12時間のイスタンブル・トランジットだったので、日用品の調達を兼ねて市内まで足を伸ばした。昨年、滞在していたので何かと懐かしい。
先ずは、空港からハーフメトロでZeytinburnu下車、そこからMetroBusに乗り換えMecidiyekoy下車(昨年9月完成)、少し歩いてSisliからメトロに乗り換えLeventというイスタンブルのビジネス街にある五味(イツミ)へ直行しランチを食べた。昨年、イスタンブルで使っていたアクビル(イスタンブールの接触型プリペイド)を持ってきていたので乗車は楽だった。
五味は料理が美味しかったので寄ってみることにした。Pinarというフロアマネージャーがいたが、なぜか憶えていてくれた。そのわけを聞いたら目立った人が一緒にいたことと皆で写真を撮ったことだそうだ。彼女は現在妊娠5ヶ月だった。
ランチの後、Kanyon, Metro Cityで衣類を買い、そして日用品を買出しにSisliまで戻った。巨大なショッピングモールCevahir Mallが駅に直結している。この時ばかりは既に1ドル95円台になっていたがそれでも円高の恩恵を感じないことはなかった。昨年、滞在していたときは1YTL=100円程度だったが、3月下旬で1YTL=55-60円になっていた。
束の間の楽しみ、束の間のイスタンブル、束の間の恩恵、ご馳走様でした!
ダマスカス旧市街
【ダマスカス旧市街】(mixiより2006年11月10日)
何年かぶりにスークハミディエからウマイヤドモスク、その横イエスの塔を経てバプトゥーマ(トーマス門)まで記憶を頼り歩いた。
同行した人が気になったのが派手なランジェリーのディスプレイ、家と同じように内側を着飾るのがイスラム文化だと説明しておいたが果たしてそうだろうか?
ウマイヤドモスクでは50SPの入場券を購入(サラディーン廟の横)して北門から中へ入った。聖なる場所へ足を踏み入れるのは緊張する。ウマイヤドモスクの中には聖ヨハネの骨が収められているお墓が存在する。ローマ神殿からキリスト教の教会、そして、イスラム教のモスクへとの建物が変遷してきた歴史を垣間見られる。
ウマイヤドモスクの南、イエスの塔に向かう通りはダマスカスの工芸品点が並んでいる。寄木細工はその代表的なもの。道沿いに歩いていくと門があり、階段を降りて旧市街の奥へと進む。
階段の右側にはカフェがあり、アレギレ(水タバコ)を楽しむ人でにぎわっている。さらに歩いていくと、ローマ時代の門の跡があり、このあたりから旧市街の生活が感じられる。ビデオ屋やシリアのパイ(ピデ)を焼く店、電気屋、グローサリーなどが並んでいる。
イスラム学校の前には水のみ場が設けてある。このあたりに、イスラム療法の病院が以前あったと聞いたが定かではない。途中、シリアのピデをつまみながら、旧市街の生活に触れる。
道を間違えて、アルメニア教会とハマームを見損なってしまったが、難なくバプトーマへ着いた。その先はキリスト教地区だ。
Wednesday, 28 June 2023
ワルシャワの夏至祭
2017/6/28
wianki nad wisłą Wreaths over the Wisps=Noc Kupały
ワルシャワの夏至祭(聖ヨハネ祭)、ロシア語圏ではイワン・クーパラ、スラブ・スカンジナビア社会の伝統的な祭事、独身女性が祭の後、花冠を川に流し男性がそれを拾うとカップルになると信じられている。この子はまだ早い気がする(笑。
Tuesday, 27 June 2023
首都高中央環状線
大橋JCTの標識、大井JCTの表記があったか?湾岸と東北道は記憶にある。それでも螺旋状なので間違え易い。C2は2択でよい、右回りの新宿池袋と左回りの大井JCT方面で。
中央環状線へのIC、直接は少ない。
空港中央、英語表記は羽田空港、素直に日本語表記もそうすればよい。
https://www.shutoko.jp/-/media/pdf/responsive/customer/use/network/navimap/230414/map_all.pdf
首都高地図
iMac 21.5. Inch late 2013、液晶が!
iMac 21.5. Inch late 2013, コロナ禍になりメモリ増設とSSD換装をしようと準備、しかし2年くらい放置、先日メモリ増設に着手。
奥深くまで開けないと到達しない。SSDは浅いのし易い。メモリ増設16GBして組み上げて確認、そしたらディスプレイに太い縦線の抜け、あらら、丁寧に扱ったつもりだったが。
都議会議員選挙2021
2年前の2021年7月4日の都議選、
東京都都議会議員選挙が6月25日に告示され7月4日が選挙期日とのこと、今日、初めて候補者のポスターをみかけたがその内容をほとんど理解していない。
都議の任期は4年、選挙区は、区部、市部、島部と分けられ計42選挙区、定数は計127議席、私の住まいのある区には3議席が割りあてられている。ポスターによると唯一の自民党候補者、もう一人、自民党公認、この違いがよくわからない、同じ政党じゃないのか。
2候補とも元なので前回は落選。その他に現職候補が3人、都民F1、公明1、共産1の内訳。与党は現職にいない、その他1人(ポスター無し、売名か?)で計7名が立候補している。
この状況は前回の都議会選挙で小池百合子知事が立憲、共産と組んで安倍政権との対決姿勢を示して反自民票を取り込んで都民Fが躍進した結果であろう。
ここ数日、政党のチラシが郵便受けに入っている、ポスターにも書かれているがコロナ対策は既に織り込み済みなのでは。改めて概観してみると、やや驚きである。ある世論調査では投票先を決めている人の政党別内訳は自民31.8%、公明14.1%、共産13.1%、都民F12.1%、立憲民主党7.1%の順で現在46議席を有する都民Fが後退し、立憲、共産へ流れるとの予測。そういう心労も重なって寝込んでしまったのか、特別顧問は。
秋の衆議院議員選挙の前哨戦ということで注目が集まっているが、国政とは視点が異なるはずだ。
Monday, 26 June 2023
東京駅丸の内口
2022/6/6、東京駅丸の内南口、有楽町駅から小雨の中、常磐橋を経て神田駅手前の鍛冶町まで歩いた。
https://www.instagram.com/reel/Ct8PwnHgydW/?utm_source=ig_web_copy_link&igshid=MjAxZDBhZDhlNA==
中目黒駅前の歯科と再開発
2023/6/19、
急遽、歯科のため中目黒駅前へ、右奥歯上、舌の触覚で歯と歯の間だと思っていたが、X線撮影で治療した奥歯の一部に横にヒビが入っていた。これを削って型を取ったわけだが、深いのでこの後ズキズキ痛むようなら根(神経)の治療が必要になるとの説明で、その判断を翌日までにすることになっていたが、幸い、直後は鎮痛剤を服用したものの夜には収まり翌日は平常通りになり、その旨連絡した。詰め物は保険適用の強化プラスチック製とのこと。
中目黒の旧国鉄宿泊舎跡
中目黒の旧国鉄宿泊舎跡、多分20年以上そのままだった、東京音楽大学になる。なぜ覚えているかと言えば、一緒に仕事をした元国鉄職員(当時は清算事業団職員の鉄道技術者)がここに住んでいたが、もう越さないと、と言っていたから。2018年度に校舎が竣工。
目黒区内には、東大駒場、東工大大岡山があり、移転した都立大(八雲)があった。駅だけだが学芸大学駅が区内に現在もある。学芸大学は東京学芸大学のこと、世田谷分校が世田谷区に存在したが1964年に小平へ移転、青山師範学校→東京第一師範学校→東京学芸大学世田谷分校と変遷。
というわけで、目黒区に一つ大学が増えることになったとい話。
数年間、下書きのままだったようだが、公開した。
Saturday, 24 June 2023
ソ連邦時代のキエフの思い出
キエフの思い出
1985年7月10日、モスクワ・キエフ駅からドニエプル号という夜行列車でキエフに翌朝着いた。それから、インツーリストの事務所へ行き、ボルガのタクシーでホテルへ。この写真は駅を出たところ、振り返って後部座席から駅舎を撮影した。
1985年7月10日、早朝、モスクワから乗った夜行列車ドニエプル号は「ゴトン、ゴトン、ゴトン」とドニエプル川の鉄橋をゆっくりと渡り、その先のキエフ駅へ滑り込んで行った。ソ連国内では自由な移動が制限されており、駅や空港に付いたらインツーリストオフィスへ行くことになっていた。そこには、予約した私の名前があり、予約したスケジュールに沿って交通機関やホテルが手配されていた。それはそれで素晴らしいと思ったが、予定を変更するとどうなるのか、試す勇気はなかった。
というのもキエフに至るまでに既に警察(民警)の世話になり、これはハバロフスク駅前で写真を撮っていて警察署へ連行され、危うくシベリア鉄道に乗り遅れるところ、ハバロフスクに置いてきぼりにされかけたところを間一髪で予定通りのロシア号に間に合ったのだ。正確には1時間程度もロシア号を待たせた、これは、添乗していたインツーリストのスタッフ(当時はウラジオストク極東大で日本語を学んでいた女学生マリーナ、夏休みだったので国家に奉仕するアルバイトだった)が、ぎりぎりまで待たせてくれたからに他ならない。というのは民警のUAZ(ジープのようなデザイン)でホームへ走り込んだ時、私のバックパックが降ろされ用としていたからだ。
ドニエプル号がキエフ駅のホームに停車し、東独製の4人用の寝台コンパートメントからバックパック用の荷物を担いで列車を降り、ゆっくりと周囲を眺めながら駅のインツーリスト事務所へ行った。あまり記憶に残っていないのはその風景に慣れてしまったのだろうか、インツーリストで少し待っていると、タクシーが来たと英語で知らせてくれた。
モスクワでは日本語を話すスタッフ(モスクワ国立大学の女子学生で東京に住んだ経験があり、NHKのロシア語に出演していたと話してくれた。)がいたが、キエフでは英語だった。そして手配されたボルガのタクシー、白が汚れて燻んでいた記憶だが、キエフの中心に位置するインツーリストホテル(多分)へ向った。どこをどうやってどの程度の時間をかけてホテルに辿り着いたのか覚えていないが、駅を出た時に振り返ったら駅舎全体が見えたのでシャッターを押した。この角度だと後ろの窓越しだろう、この写真も恐る恐るシャッターを押したことは間違いない、なのでシャッターを切ったのは1枚か2枚だけだっただろう。
キエフの朝は曇っていたが、その後、晴れた。インツーリストホテルのツアーデスクで市内観光バスがあるのというので半日英語ガイドコース(確か6米国ドル)に乗った。キエフはマロニエの花が咲きほこり、緑の中に都市があった。
途中、ソ連構造主義の巨大な彫刻が建っているドニエプル川を見下ろす丘があり、眼下にその日の朝、鉄道で渡ってきた鉄橋が見え、その先に白い巨大なアパート群が見えた。キエフ大学の前も通った。
疲れていたのでバスに乗ると直ぐにウトウトしてしまった。今思えば聖ソフィア大聖堂ではなかったかと思うが教会に立ち寄った。こんな塔があり説明ではソ連は宗教を否定しており今は科学博物館として利用している、と表明的な説明だった。ここまでで、その奥には行かなかった。そう言えばバスツアーで一緒だったテキサスからの米国人の女性二人連れ、少し話したが、開口一番、ヘイボーイだった。当時、言葉がそれほど出来ず、切込めず、残念ながら。
このバスツアーに行くのに慌てて部屋を出たのでカメラを置いてきてしまい、ツアー中の写真がない。それで午後から散策に出た時、途中に本屋があったのでキエフの写真集とソ連邦の地図を買った、かなり精緻だった。
キエフの記憶より。
Friday, 23 June 2023
ハイランドストロベリー
Highland Strawberries and its juice in Mojo, Oromia, Ethiopia
2016年6月23日、
アビシニア高地の苺、Mojoの南、A7沿いにある苺農園に隣接したHyio Cafe、Hawassa, Ziwayへ行った時のトイレ休憩場所になっていた。苺は湾岸諸国向けとのこと。
オーストリア航空
OSのチャックインカウンター、パスポートを出してチェックインしようとするが、航空券はお持ちですかと?私の名前がシステム上で見つからない様子、チケットを出してもそれでは同じこと、よく見てほしいですね、ってほとんどだれも認識していない私のファミリーネーム。ただ、これはよく確認すればよいだけなのだ、日本人でさえこの状況なのです。
それから、片道航空券なので何か書類をお持ちですか?と意味不明な質問、航空券は往復航空券なのですが、何か書類って具体的な説明をしないと何を言っているのわからない、客が推測しないといけないのかねー。パスポートにあります、と回答すると怪訝そうな表情、こういうのはマニュアルにはないのでしょうね、預け入れ荷物の超過分請求のような定型ではないので。
最近、成田空港では大汗をかくことが💦多い。またまた教訓、その教訓が常に次に活かされていないのが私の現実みたいだ。大汗の原因はチェックインが容易ではないからだ。それは預入荷物および手荷物の重量チェックが非常に厳格化していることが最大要因である。特に最近の移動は殆どがエコノミークラスなので30kgx1若しくは23kgx2と手荷物7kgx1である。
今回も大汗をかくことに💦なった、もちろんそのつもりはなかったが、2個のスーツケースが両方とも2-3kg超過していたからだ。空かさず超過料金をいただきますという、カウンターのスタッフ、マニュアルを読み上げているようで嫌な感じ。こういう時には星組金は権利を主張出来る。これは予想されたのでテニス用のバッグを持って来ていて、それに両方の超過分を入れ替えせざるを得なかったのでした。詰めないつもりだった液体食料品と乾麺が入っていて、それらと重めの紙類などをバッグに移す作業で大汗💦なのでした。そしたらスーツケースはスカスカ、衣類等をもっと入れておかないと。
大汗💦💦💦をかいたのでワイシャツまでびっしょり、その後、冷房が効き過ぎた場所にいたので、何か変、気持ちいいわけない。
チェックインカウンターでは、周囲にいるスタッフが手荷物をシールをと言いながら、重量を計ろうとする、カウンターのスタッフに任せておけば良いのに。こういう状況では、手荷物の7kgは容易にオーバーする、よく聞く手荷物2を何処かに預けチェックイン後にピックアップして手荷物検査場へ向かうというアイデアに現実性が帯びてくる。
オーストリア🇦🇹航空、成田発ウィーン行きはOS52、2010年ごろから搭乗する機会が多くなった。2018年6月は母見舞いの一時帰国でアンマンから利用した、再開直後だった。機内持込み荷物チェックがウィーン空港で厳しかった記憶、トランジットでも。この頃はどのキャリアでもセキュリティが厳しくなっていた。
オーストリア航空、成田線への就航は1989年7月16日、3社(アエロフロート、全日本空輸)共同運航でウィーン - モスクワ - 成田線を開設、機材はエアバスA310だった。この頃は全く縁がなかった。
2009年9月3日、ルフトハンザドイツ航空が株式の90%以上を取得し、オーストリア航空を買収した。
2010年にはYerevan往復に成田/ウィーン線、ウィーン/Yerevan線を利用した。当時の機材はボーイング777-200ER型でFAの真っ赤なユニフォームは変わらず印象的だった。
2016年4月6日、日本経済の停滞と円安による価格競争の激化により(wiki)、ウィーン - 成田線は既に不採算路線となっており運行廃止が発表された。最終便はウィーン発2016年9月3日と東京発翌4日であった。
9月4日、成田発をもって日本発着路線の運行を終了、27年の歴史に幕が下ろされた。が、新たな幕が開いた。翌日、香港線を開設したのだ。ところが、2年も経たない2018年5月15日、成田発による日本発着路線の運航を再開した、柳の下のどじょうを掬えなかったのか?
1年8カ月ぶりとなった2018年5月15日の再開後は、同年10月27日まで運航し、そして2019年3月31日から10月26日までの夏期のみ運航していた。
新型コロナウイルスの影響を受け2020年3月19日(木)から全路線が運休した。2021年3月29日より成田ーウィーン線の運航を再開し、新型コロナウイルスの影響を受けたが東京オリンピックなどもあり最大週3便を運航、機材B777-200ERだった。
その後は週1便、ウィーン発金曜日、成田発日曜日の運航を継続し、2021年10月15日の運航後に夏スケジュール期間を残して運休に入った。
2023年5月2日から成田-ウィーン線の運航を再開が発表された。冬スケジュール期間中は期間運休していた。
5月2日から成田発水・金・日曜とウィーン発火・木・土曜の週3往復で運航を再開し、5月17日からは、成田発木・土曜、ウィーン発水・日曜の運航を追加し、週5往復となっている。
オーストリア航空、27年の歴史に幕、日本便撤退
2016年に運航停止
https://www.aviationwire.jp/archives/99084
2018年再就航
https://www.aviationwire.jp/archives/147738
コロナで全路線運休
https://flyteam.jp/news/article/131118
オリンピック終了、冬期運休
https://sky-budget.com/2021/10/24/austrian-airlines-suspend-nrt-vie/
広尾商店街
2012年6月21日
今日のランチは広尾商店街のキッチンふるはし、昭和40年開業の洋食屋、昭和61年にお世話になってから時々足を運んでいる。クリームコロッケ、ハンバーグ、和風エビチリに味噌汁、ライス、お新香が付く。このセット、私的には主菜は一つで十分だが皆懐かしく平らげてしまった、ちょっと食べ過ぎ、自転車で帰って来たがそれでは相殺されない。
ミンスク
2017年6月23日、
ADD-VIN-MSQで紛失中の預入荷物、一週間を要してWAWで手元に届いた。MSQには無いとのOSの説明だったが、MSQに留め置かれていた。だろうな、行先がMSQだったのだから。TKのネームタグが無くなっていたが、中の物はそのままだった。1週間、着替えが無かったことになる、現地調達で対応、こういうのはどうにかなるものだ。
ADD-VIN-MSQで紛失中の預入荷物、一週間を要してWAWで手元に届いた。MSQには無いとのOSの説明だったが、MSQに留め置かれていた。だろうな、行先がMSQだったのだから。TKのネームタグが無くなっていたが、中の物はそのままだった。1週間、着替えが無かったことになる、現地調達で対応、こういうのはどうにかなるものだ。
Thursday, 22 June 2023
麻布十番商店街
2015年6月21日
今日立ち寄った麻布十番商店街、明治期に繁華街が形成された。都電廃止後は陸の孤島だったが2000年に南北線と大江戸線が開通。東京市政施行後に麻布区、そして戦後に港区となる。麻布十番の住居表示は昭和37年にできた。
麻布網代町、坂下町の全域と宮下町、新網町、南日ケ窪町、宮村町、一本松町、山元町、新広尾町(何れも頭に麻布が付く)の各一部が麻布十番1丁目から3丁目に編成された。麻布十番よりも旧住所のが良さそうだが、住居表示にはそれなりの目的があったことであろう、それに通称として定着していたようだ。