Tuesday, 18 June 2024

夏の風物詩、スタリ・モストからの飛び込み

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルの夏の風物詩、スタリ・モスト(古い石橋)からの飛び込み、水面まで24mの高さである。実際に飛び込みを見たことはないが、季節外れだったのだが、2004年10月に再建間もないスタリ・モストを渡り、橋の下の川面まで降り流れに触れたことがある。
 
モスタルは、ローマ時代は属州ダルマチアに含まれていた。初期キリスト教のバシリカ(basilica、古代ローマ時代に裁判所や商業取引所とされた長方形の建物で後にキリスト教がローマ帝国内に広まるにつれて、この建築様式が教会堂に利用されたもの)が見つかっている。ローマ帝国が滅亡するとスラブ人が侵入した。中世初期には自治権を得ていたが、その後、14-15世紀にボスニア王国の一部となり、モスタルは1448年にヘルツェグの称号を得ている。
 
モスタルは1468年頃にオスマン帝国支配下に入り、カディルクと呼ばれる法・行政管区の中心として整備され都市化が進展した。以来、モスタルは鉱物資源が豊富な中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地として発展し、ネレトヴァ川右岸の都市化が進展した。
16世紀、モスタルはネレトヴァ川を渡る重要な交通路であることからネレトヴァサンジャクの首府となり、ヘルツェゴビナ地域の行政の中心都市となった。ネレトヴァ川に木橋が架かっていたが、オスマン帝国皇帝スレイマン1世の指示により 1566年に木橋から現在の石橋、スタリ・モスト(古い橋)に掛け替えられた。石橋は中心部が湾曲した橋で、全幅 4.49 m、全長 30 m 、川面からの高さは 24 m である。
 
冷戦の終焉とともにユーゴスラビアは急速に内政が不安定になり紛争状態に突入した。1991年11月18日、クロアチア民主同盟 (HDZ) のボスニア・ヘルツェゴビナの姉妹政党であるHDZ BiHは、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の存在を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。その結果、モスタルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力が、東側はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の軍が集まりそれぞれ支配した。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立宣言を行うとユーゴスラビア人民軍 (JNA) が徐々に支配を広げ、1992年4月3日に最初の爆撃を行い1993年にかけての18か月間、モスタルを包囲した。クロアチア防衛評議会 (HVO) は抵抗しJNAは報復としてカトリック教会やモスクを砲撃した。HVOは応戦しセルビア教会や修道院を破壊した。両勢力の対峙によりスタリ・モストは、1993年11月9日午前3時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊された。
 
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はデイトン合意により終結、その後復興が急速に行われ、スタリ・モストの再建が1999年に開始され2004年6月23日に復興工事が完了した。私が渡ったのは翌年の10月だった、真新しい石橋で目地のコンクリートが年月を感じさせない白っぽい色だった。

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