2007年と2008年は何度かイスタンブールに滞在した。それは念願がかないイスタンブール都市交通MP調査に参加出来たからである。前会社の大先輩であり人生の大先輩のW総括の下、仕事と人生論が半々の様な、対象がイスタンブールということもあり、私の業務経歴の中でもとてもやりがいのあるプロジェクトだった。また、イスタンブール市役所側の対応も他の案件と比較しても待遇がずば抜けてよく、充実した業務スペースの提供とレベルの高いスタッフたちがアサインされた。
そのプロジェクトオフィスがベイオール地区、ペラパレス(アガサ・クリスティの常宿で1934年に発表されたオリエント急行殺人事件がこのホテルの411号室で執筆されたとされる)とトルコ国営テレビTRT(Turkish Radio and Television Corporation) Studiosの隣りのIMP(イスタンブール市役所の計画部門)があった。それゆえに住まいは最初はタクシム広場近くの、その後、オフィスに至近のペラパレスの裏のサービスアパートを借り徒歩通勤した。
オフィスからもアパートからもイスティクラル通りは近く、通勤や食事、散歩兼ウインドウショッピング、両替などなど、生活圏の商業地区であった。そこにTaksim-Tünel (T2) Nostalgia Tramwayが運行している。全長1.6km、タクシム広場とチュネルを結んでいる。
ベイオール地区は尾根状になっており商店街をトラムが走っている。両側は急峻な坂で、タクシム広場からボスポラス海峡沿いへはF1 Taksim–Kabataş funicular line(2006年開通)が、F2 Tünel (1875年開通)は、ガラダ橋の手前、丘の下のKaraköy- Tünel Squareを連絡している。
2008年夏は騒がしく、北京オリンピック(2008年8月8日から8月24日)が開催され、その陰で、南オセチア紛争(2008年8月7日から8月16日)が勃発した。イスタンブールでもこの時期、市内で爆弾テロが頻発していた。
イスティクラル通りのノスタルジックトラムは、1871年から馬車として運行が開始され、徐々に電化されていった。1960年代中頃に世界の大都市と同様に都市化の進展と自動車交通の普及に押されて廃止されたが、1970年代に都市交通問題が深刻化して、1980年代に入りイスタンブールは自動車交通規制へと舵を切り、世界の大都市と同様に軌道系公共交通機関の復権が行われ、1990年にイスティクラル通りが歩行者専用になった機会に24年の空白期間を経てTaksim-Tünel間、5停留所、1.6kmのノスタルジックトラムが復活した。この方針転換のターゲットはイスティクラル通りのトラムを含む市内のトラムの復活であった。現実的には観光トラムの性格が強いが、イスティクラル通りの演出に一役買っている。冬のイスティクラル通り、今もこんな風景であろう、この写真はタクシム広場を背にしてツュネル方向、タクシム広場に入る手前であろう。
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