Saturday, 29 June 2024

ナホトカ航路で出航、1985/6/29 11:00

 1985年6月29日(土)11:00出港、横浜港大桟橋からソ連極東海運ハバロフスク号でナホトカへ向けて出航する直前。ナホトカまで2泊3日、津軽海峡を通過するルート。船はかなり小さいがこの季節日本海は凪だった。

https://1985.iio.org.uk/



Thursday, 27 June 2024

都知事選とポスターその1

 本日月末(6/27)、自転車で移動するには都合が悪そうな天気予報だったので1日前倒しで、昨日、区総合庁舎などでの所要を済ませた。幸いにもするりとハードルが下がり100%達成ではないものの、用が足りるレベルまで到達し可能となった。区役所で自転車を駐輪場へ停めたら目の前に噂の都知事選掲示板が視野に入った。何だか政党宣伝掲示板の様子、不在者投票は失念、今週末でも出来そう。都知事選、現職候補が独走との噂、政権与党にバックアップさせる海千山千を渡り歩く能力が優っているようだ。

帰りに商店街の八百屋でトマト、パプリカ、トウモロコシなどなどの野菜をたくさん買ってきた。夕飯が茹トウモロコシ、生食トマト、生食パプリカのベジメニューとなったのでした。






Tuesday, 25 June 2024

IL-62M

 ソ連邦時代、成田にも就航していたアエロフロート航空、その機材であるIL-62M、写真はJFK、1977年。



黒海沿岸のソゾポルSozopol

 Sozopolソゾポル、黒海沿岸のギリシャ植民都市、ブルガスまで行ったものの、当時、情報を持ち合わせていなかったことと、時間的な制限からまた来ようと思いつつ、未だ再訪がかなっていない。ブルガスの南30kmなのに。その時はソフィア-プロブディフ-ブルガス-ヴァルナ-ルセ-ソフィアを1泊2日の強行日程、2日目はブルガスからヴァルナを経由してソフィアに戻った。後で調べたら、行くべきだったと。ブルガスの北にPomorie, Nessebarというギリシャ植民都市跡もある。いずれも黒海に突き出た岬が市街化している。トラキアの時代から続いている。



ベレンまで遠征2002

 2002年3月、このアマゾン河の河口に近いベレンで開催されたブラジリア連邦大学及びブラジル運輸省主催の国際シンポジウムのため、東京中一日で、マニラ-成田-成田-ロスアンジェルス-マナウス(予定にない給油着陸)-サンパウロ-ベレン(リオデジャネイロ経由)と30数時間かけて、途中、機材のトラブルや遅延などもありながら01:30にベレンに着き、迎えに来ると言っていた人も来ず、ホテルへタクシーで行った。翌朝、朝食時に打合せをし何とかスケジュールに間に合いプレゼンをした、その時の一枚。ベレンは日系人が多く日本料理屋、確か都だった、日本の裏側で和食を楽しんだ。

Belem, Brazil. March 2002.



Monday, 24 June 2024

ワルシャワの夏至祭(聖ヨハネ祭)

2017/6/24、ワルシャワの夏至祭、旧市街ヴィスワ川沿いで行われていた。

 wianki nad wisłą Wreaths over the Wisps=Noc Kupały

ワルシャワの夏至祭(聖ヨハネ祭)、ロシア語圏ではイワン・クーパラ、スラブ・スカンジナビア社会の伝統的な祭事、独身女性が祭の後、花冠を川に流し男性がそれを拾うとカップルになると信じられている。この子はまだ早い気がする。







Thursday, 20 June 2024

iPhoneのライトニングは純正?

 iPhoneの画面に「Lightningコネクタで液体が検出されました」、え?と調べたらケーブルの問題なのか、確かに純正ケーブルに繋いだら液体メッセージは出なかった。

>真っ先に原因として考えられるのは、Appleの純正ではない充電ケーブルを使用しているケースです。

iPhoneのメッセージ、純正ケーブルを使っていないと起こる。

初めてだが、濡らしてはいない。コネクタはオス側のことか?メス側のソケットの中も空気を吹付けたが改善されず。

純正の切れそうなケーブルで繋いだらメッセージは出ず、充電できた。その後、元の非純正で接続したらこれまで同様に充電できた、何これ?



Wednesday, 19 June 2024

ロンドンーカルカッタ間のバスルート London-Calcutta Bus Service

 カルカッタは初海外出張先であり、その後何度か出張、それに強烈な印象を受けたので少しは馴染みがある都市、SNSで視野に入った長距離バス、少し振り返ってみる。

ロンドン発カルカッタ行きバスが1957年から1976年まで、世界最長定期バスルートが運行していた。英国のツアー会社がユーラシア大陸横断バスツアーやアフリカ縦断バスツアーなどのツアーに同行したNHKの番組を観たことがあるが、ロンドン-カルカッタのこの長距離バスルートが下敷きにあったのかと。
 
1957年4月15日にロンドンを発ち、50日後の7月5日カルカッタに到着した。英国、ベルギー、西ドイツ、オーストリア、ユーゴスラビア、ブルガリア、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドへ、ニューデリー、アグラ、アラハバード、バラナシを経てカルカッタへ。約16000km、所要50日、料金145ポンド、バスは寝台棚、キッチン付きだった。このバスはロンドンのアルバートツアーズ社によって運行され、途中、ウィーン、ザルツブルク、イスタンブール、テヘラン、カブールではショッピタイムが設けられて、インドではタージマハル、ベナレスなど観光地滞在も組込まれていた。
 
このバスルートはイラン革命(1978年1月 - 1979年2月)とインド・パキスタン両国間の緊張が影響して1976年を最後に運行が停止された。計15回往復が運行から年1回の運行だったことがうかがえる。
 
このような多国間を跨ぐ超長距離移動には、地域情勢が影響することを如実に物語っている。ウクライナ紛争やガザ情勢の変化に伴う第三国による報復的な戦闘行為がスエズ運河ルート通行を困難にし、遠方の希望峰へ変更され、結果として所要時間が長くなり運賃が値上がった。
 
このバスルート上のパキスタンの例では、1947年の英領インド帝国の分割に伴いヒンドゥー教国のインドとイスラム教国のパキスタンに分かれ、パキスタンはインドを挟んで西と東に地理的に分かられた国となった。西パキスタンと東パキスタンである。
ベンガル地方の東パキスタンは政治的実権を西パキスタンに握られていて植民地的な様相を呈していた中、1970年にサイクロンが全土を襲い50万人とも言われる犠牲者が出た。市民は西パキスタンの中央政府に憤り、独立運動が広がりパキスタン軍が制圧に動き、大量の難民がインドに流入したことからインドはインドは東パキスタン独立のため介入し、1971年に3度目の対パキスタン全面戦争(第三次印パ戦争)となった。主戦場である東パキスタンへは西パキスタンから遠距離でありインドの圧倒的な勝利に終わり、東パキスタンは1971年12月にバングラデシュとして独立した。
 
国際情勢や地域情勢の把握は事業を運営する上ではリスク要因であり、安定した運営のためには現状把握が欠かせないのは当然ですが。
 
50日というのはバスを利用したツアー、定期バスというカテゴリーはるかに超えている。現在でもインターシティバスを乗り継げば、このルートでロンドンからカルカッタまで行ける。ヨーロッパ、トルコ、イランは多種多様なバス交通ルートが運行されている。ただ今はアフガニスタンが通過困難かも知れないが。






https://curlytales.com/this-was-the-worlds-longest-bus-route-from-kolkata-to-london/

Tuesday, 18 June 2024

アイスクリーム、アイスミルク、ラクトアイスの違い

アイスクリームと一言でいうが、アイスクリーム、アイスミルク、ラクトアイスに分類される。商品名にそれぞれ記載されている。

アイスクリームとは乳固形分15.0%以上 (うち乳脂肪が8.0%以上) 入っているもの。 

アイスミルクとは乳固形分10.0%以上 (うち乳脂肪が3.0%以上) 入っているもの。 

ラクトアイスとは乳固形分3.0%以上入っているものです。 

この他に氷菓 (ひょうか) があります。

https://www.yotsuba-shop.com/column/story/detail/139












夏の風物詩、スタリ・モストからの飛び込み

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルの夏の風物詩、スタリ・モスト(古い石橋)からの飛び込み、水面まで24mの高さである。実際に飛び込みを見たことはないが、季節外れだったのだが、2004年10月に再建間もないスタリ・モストを渡り、橋の下の川面まで降り流れに触れたことがある。
 
モスタルは、ローマ時代は属州ダルマチアに含まれていた。初期キリスト教のバシリカ(basilica、古代ローマ時代に裁判所や商業取引所とされた長方形の建物で後にキリスト教がローマ帝国内に広まるにつれて、この建築様式が教会堂に利用されたもの)が見つかっている。ローマ帝国が滅亡するとスラブ人が侵入した。中世初期には自治権を得ていたが、その後、14-15世紀にボスニア王国の一部となり、モスタルは1448年にヘルツェグの称号を得ている。
 
モスタルは1468年頃にオスマン帝国支配下に入り、カディルクと呼ばれる法・行政管区の中心として整備され都市化が進展した。以来、モスタルは鉱物資源が豊富な中央ボスニアからアドリア海への交易ルートの中継地として発展し、ネレトヴァ川右岸の都市化が進展した。
16世紀、モスタルはネレトヴァ川を渡る重要な交通路であることからネレトヴァサンジャクの首府となり、ヘルツェゴビナ地域の行政の中心都市となった。ネレトヴァ川に木橋が架かっていたが、オスマン帝国皇帝スレイマン1世の指示により 1566年に木橋から現在の石橋、スタリ・モスト(古い橋)に掛け替えられた。石橋は中心部が湾曲した橋で、全幅 4.49 m、全長 30 m 、川面からの高さは 24 m である。
 
冷戦の終焉とともにユーゴスラビアは急速に内政が不安定になり紛争状態に突入した。1991年11月18日、クロアチア民主同盟 (HDZ) のボスニア・ヘルツェゴビナの姉妹政党であるHDZ BiHは、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の存在を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。その結果、モスタルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力が、東側はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の軍が集まりそれぞれ支配した。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立宣言を行うとユーゴスラビア人民軍 (JNA) が徐々に支配を広げ、1992年4月3日に最初の爆撃を行い1993年にかけての18か月間、モスタルを包囲した。クロアチア防衛評議会 (HVO) は抵抗しJNAは報復としてカトリック教会やモスクを砲撃した。HVOは応戦しセルビア教会や修道院を破壊した。両勢力の対峙によりスタリ・モストは、1993年11月9日午前3時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊された。
 
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争はデイトン合意により終結、その後復興が急速に行われ、スタリ・モストの再建が1999年に開始され2004年6月23日に復興工事が完了した。私が渡ったのは翌年の10月だった、真新しい石橋で目地のコンクリートが年月を感じさせない白っぽい色だった。

Monday, 17 June 2024

下目黒小学校裏門のヤマボウシとトーチカのようなトイレ

 下目黒小学校裏門のヤマボウシ、ハナミズキと似ているが花弁の形状が異なる、先が尖っている。そしてハナミズキの花は4月中旬に咲き真っ白だが、ヤマボウシは6月中旬に咲きややクリームグリーンのように見える。

その前にある目黒区民センター公園のトーチカのようなトイレ、これが1970年代デザインなのか、だ。

しかしこの土地、目黒区はPFIにより下目黒小学校、目黒区美術部、区民センターを一体化して建替える再開発計画を進めている。実施されれば、激変、テニスコートもろともこの空間は消えて、高層タワーマンションが建設され、小学校、美術館、区民センターはビル内に。












ウズベキスタン、韓国製高速鉄道導入

 ウズベキスタンは、産業分野のリフォームを進展中、2026年までのロードマップが示されている。ミルゾヤエフ大統領が鉄道分野のリフォームに関する政令に署名、貨物輸送車輌不足が急務でありリース手続きの他、2023年11月までに閣僚会議に関連企画案が提出された。次いで旅客輸送車輌の更新が近い将来の優先課題として位置付けられた。

ウズベキスタン鉄道はその一環として韓国の現代ロテム社製の高速鉄道、最高速度が250kmの「KTX-イウム」、7両編成(x6)の42輌を調達する。ウズベキスタンには既にスペインのタルゴ社製Talgo250 AfrosyobがTashkent-Bukharaに導入(2009年Samarkand、2016年にBukhara)されており、仕様(250km/h)が同じなのでこの旅客車輌(広軌:ロシア規格)の更新。

旅客車輌更新に伴う融資は、韓国経済開発公社

The South Korean Economic Development Co-operation Fund (EDCF)が行い、融資額185mil Euro、融資期間35年、利率年0.1%を見込んでいる。

また、ウズベキスタン国鉄はŠkoda製電気機関車30輌の調達を計画、そのためにチェコの銀行団から350mil Euroの融資(15年、年率5.5%)を予定している。

財務的改善に関しては中国輸銀からのローンをウズベキスタン鉄道への補助金に充て近代化を図り、制度的な枠組みはLaw on Railway Transportを2024年1月までに改訂するとしている。ウズベキスタン鉄道の新組織への改革ではBig Four (Deloitte, KPMG, PwC, EY)からの外国人専門家による経営面の国際標準化、財務報告及び監査による経営管理面の改善が期待されている。

https://kun.uz/en/35638405?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR0-1SZPD0C0IWFFloiQxn1ivNep-VDpHP9HJM3oSH9VeJzQoCIdQclJoSI_aem_2ck5o1UEGcfis08k6Bh1vw


北里柴三郎と港区と福澤諭吉

 港区高輪地区総合支所のロビー(6/17)、北里柴三郎の大きな写真、新千円札発行記念パネル展とのこと、報道では渋沢栄一ばかりですが。港区ゆかりの著名人、北里柴三郎はロベルト・コッホに師事して多大な業績を挙げた細菌学者、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた北里柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞したようです。

北里柴三郎は白金台の東大医科学研究所の全身であった国立伝染病研究所の所長、そして福澤諭吉の支援を受けて設立された白金の北里研究所長、同時に慶應義塾の医学部設立に尽力、無給で医学部長兼病院長を引き受けた。医科研正門を入って左側に近代医科学記念館があり、また、北里研究所内に北里柴三郎記念室がありそれぞれ業績を展示している。

個人的には東大医科研病院にはお世話になり、命拾いしたのが10年少し前になる。










Sunday, 16 June 2024

ジョージアとアルメニアの言語地図

 ジョージア(グルジア)とアルメニアの言語地図がSNS(Xだったか?ソースはReddit、それを引用)で見かけた。ジョージアに滞在中の方だったかも、Batumiでトルコ語地区がある云々の投稿だったと思う。それは15世紀にオスマン帝国支配下になり19世紀末の露土戦争でロシア帝国配下になったことが影響しているのだろう。(コメントにYouTubeの映像リンクを貼ってあります。)



この両国、10年ほど前になるが現地踏査と称して各地に赴いたことがある、ジョージアの東部を除いて。

この言語地図を見ると、現在の未承認国家や紛争の火種となった民族の配置がよくわかる。また、認識していなかったSvanやMingrelian言語が見られる。それらはこの地域の歴史に由来する。

前述のBatumiは、ジョージア国内のアジャリア自治共和国Autonomous Republic of Adjaraの首都、ジョージア第二の都市である。住民の8割が民族籍をカルトヴェリ人Kartvelian (グルジア人)やその支族(ミングレル人、ラズ人、スヴァン人に分類され、この地方のグルジア人の多くがアジャール人と呼ばれるイスラム教スンナ派を信仰するカルトヴェリ(グルジア)系の民族グループである。地図にはグルジア語話者との分類だが宗教が異なる。

ナゴルノカラバフは白地になっているが、as for 2024なれど配慮が伺われる。ジョージアの中にもアルメニア系居住地がある。ジョージア南部はアルメニア系のようだ。その他、ジョージア内のアルメニア系はギュムリからトルコ国境沿いに北上したアハルカルキ/アハルツィヒ辺り、そこから東進するとボルジョミ渓谷へとなる。アルメニア内のクルド系(Yazidis)は認識してしていたがジョージア内にも存在する。

ジョージア国境に近いアルメニア北部にはアゼリ族の居住地があったがソ連邦崩壊とナゴルノカラバフ紛争(第一次)により出国しアルメニア領内には殆んど残っていないが、ジョージア南東部にはアゼリ系が居住している。

その他、アルメニア北部にギリシャ系とロシア系の居住地がある。ロシア系はモロカンと呼ばれるロシア正教異端のコミュニティで、18世紀後半にセヴァンとトルコのAmasyaへ移住したセヴァン地区の子孫。エレバンでも彼らはよく見かけた。Svanはコーカサス言語族の一つでジョージア北西部の山岳部のSvan族の言語、Minglerianはジョージア西部及びアブハジアの言語で民族的にはMingreliansとなる。何もジョージア語と混成して使われている。

ギリシャ系はアナトリア北東部を起源とするPontic Greeksと呼ばれオスマン帝国の拡大とともに各地に広がっていった、その子孫である。

このように地図のとおり、コーカサス地域は地形とともに民族言語が複雑に入り組んでいる土地である。

https://www.reddit.com/r/geography/comments/1adblr5/languages_in_georgia_and_armenia/

ソニー、一部テレビ/レコーダーの“Video&TV SideView”機能終了

 このアプリ、重宝していたが。

2012年10月以前に発売したBDレコーダーとBDドライブ搭載液晶ブラビアに提供していた「Video&TV SideViewとの連携機能」を、2023年9月下旬に終了すると発表した。

ソニー、一部テレビ/レコーダーの“Video&TV SideView”機能終了 - AV Watch https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1504931.html

予備機のEW1000、製造年が2012年10月なので非対応に、それで、2023年になって2020年製造年のEZ1000を中古で購入した。TVがシャープのAQUOSに接続、アプリは使えている。SONY BRAVIAだとTVにも使える。これって新しい機器へ更新しろという販促手段、世知辛いなあ、支障なく使えていたのに。


アオバハゴロモの幼虫か?

アオバハゴロモの幼虫か?

2週間ほど前に実家に植えたアメリカンチェリーの苗木に発生していた。



オオバハゴロモ

成虫は三角形状で淡緑青色の羽のある虫で、幼虫は白い綿状分泌物に覆われている。生垣などに一列に並んで寄生しているのを見かけることが多い。

発生時期: 5-9月

吸汁性害虫ですが実害はあまりありません。しかし、大発生すると樹勢が衰えたり、また果樹類の果梗部分に寄生すると落果の原因にもなります。

https://www.sc-engei.co.jp/resolution/pestanddisease/photolist/details/1202

Saturday, 15 June 2024

目黒区民センター再開発問題

 以下、抜粋です。

こんなサイトを発見!区議の皆さんが言うところの「将来的な負の遺産」での課外授業皆様お疲れ様でした。贅沢は素敵です。

日本建築家協会の2回目の提言書の抜粋(やや専門的な内容)を読むと

やはり区立美術館の修繕費が1回40億円以上の工事なんてことはあり得ないとはっきりと指摘されています。

坪単価も320万円以上になるのはあり得ないそうです。

目黒区民の皆様・有志の皆様へ

目黒地域会の建築士のO先生が目黒区の大規模計画(区民センター跡地開発だけでも予算が384億円とされている)について詳しい解説を書いて下さいました。とても勉強になりましたし、今後の参考になる文章だったのでこちらにも掲載を致します。専門家の意見は大切です。どうぞご覧になって下さい。

以下:

建築家のOと申します。

そもそも、何故、目黒区は建物の高さ制限を見直し(つまり緩和)しようとしているのでしょうか?

区民や住民から高さ制限を緩和して欲しいと言う要望はあったのでしょうか?区は「良好な住環境の保全・形成を目的として」と謳っていますが、その根拠は?

高さ制限を緩和することで、区民や住民が “より幸せ” になるのであれば、その科学的根拠は?

高さ制限を緩和するとは、本音で言えば、開発業者の利益の為ですが、なぜ、ハッキリとそう言わないのですか?

より高い建物を建てられるように制限を緩和するのに「高さ制限の見直し」と言ったり、住環境が悪くなるのが明白なのに「住環境の保全・形成」と言ったり、ごまかそうとする姿勢が見え見えです。また区民や住民の利益の為ではなく、開発業者の利益の為に肩入れする姿勢が問題だと思います。

目黒区は、山手線内側の港区や渋谷区とは異なり、土地の路線価がそれ程でもなく、開発業者の算盤上、PFIの条件としては厳しいところにあります。高層マンションを建てて販売しても、都心のマンション程の高値は付けられないのです。PFIで多くの開発業者に手を挙げてもらうためには、開発業者に少しでも有利になるようお膳立てをすることは理解できますが、それが区民や住民の利益より優先されるとは、本末転倒です。区民最優先で考えてもらいたいです。私企業の開発業者への利益は、区民や住民には一切還元されません。

言い換えれば、目黒区は超都心でもなく、郊外でもなく、交通至便で、良い住環境を保っている絶妙なロケーションなのです。その良好な住環境を保全すべきです。

それと、もう時代的に、都心や臨海部、武蔵小杉に林立する「タワマン」の時代ではありません。

未だに時代遅れの「タワマン」に憧れる区の行政に呆れます。

首都直下地震も待ったなしで、高い確率で発生します。

もう半年も前の能登半島地震の “今の惨状”は、明日の我が身であることを忘れてはなりません。

将来、「目黒区にはタワマンが無くて良かった!」と言われる日が必ず来ます。

参考資料・目黒区のウェブサイト https://www.city.meguro.tokyo.jp/toshikeikaku/kusei/keikaku/takasasikitikettei.html#p1

「高さ制限のあり方の見直しに取り組むことにしました。」として

「これからの目黒区にふさわしい建物の高さに関する説明会」が下記の通り開催されます。

のちに「区民の声を聴いた」のアリバイに利用されるかもしれませんが、関心の高さや懸念の声を示すためにも意見を出すためにも、ふるってご参加いただければと思います。

Meguro-ku "has decided to undertake a review of how height restrictions should be enforced” so they're holding the “Explanatory Meeting on Building Heights Appropriate for Meguro City in the Future” scheduled as below:

Though it is concerning the administration may take this as “we have heard you" once again, it'll still be worthwhile to show our presence, concerns, and to prepare for submitting the "public comment". See below for dates and venues.


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めぐろ区報 令和6年5月15日号

 【お知らせ】これからの区にふさわしい建物の高さに関する説明会 より

区は、良好な住環境の保全・形成を目的として、平成20年11月に建物の高さ制限について定めました。

一方、近年の都市に対する需要の変化を受け、令和5年4月に改定した「目黒区都市計画マスタープラン」では、高さ制限のあり方の見直しに取り組むことにしました。そのため、良好な低層住宅地はそのまま維持する考えのもと、地域特性に応じた建物の高さ制限のあり方の見直しについて検討しています。

■説明会

建物の高さ制限における、区の現状と見直し対象の区域、見直しの必要性について、説明パネルなどの展示と併せて、職員が個別で質問に答えるオープンハウス型で説明会を開催します。

日時・会場:

(下記参照)

問合せ:都市計画課都市計画係

【電話】5722-9726【FAX】5722-9338

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みんなにやさしい街づくり > 建築物の絶対高さ制限・敷地面積の最低限度 > これからの目黒区にふさわしい建物の高さに関する説明会の開催・区民意見等募集 より

目黒区は、良好な住環境の保全・形成を目的として、平成20年11月に建物の高さ制限について定めました。

一方、近年の都市に対する需要の変化を受け、令和5年4月に改定した「目黒区都市計画マスタープラン」では、高さ制限のあり方の見直しに取り組むことにしました。そのため、良好な低層住宅地はそのまま維持する考えのもと、地域特性に応じた建物の高さ制限のあり方の見直しについて検討しています。

説明会

建物の高さ制限における、目黒区の現状と見直し対象の区域、見直しの必要性について、説明パネルの展示と説明動画による説明と併せて、職員が個別で質問に答えるオープンハウス型で説明会を開催します。

日時・会場:

日時

会場


6月19日(水曜日)18時から20時まで

中央町社会教育館レクリエーションホール(目黒区中央町二丁目4番18号 中央町さくらプラザ地下1階)


6月22日(土曜日)13時から15時まで

⽬⿊本町社会教育館3階レクリエーションホール(目黒区目黒本町二丁目1番20号)


6月26日(水曜日)18時から20時まで

東⼭社会教育館レクリエーションホール(目黒区東山三丁目24番2号 東⼭地区センター2階)


7月2日(火曜日)18時から20時まで

⽬⿊区⺠センター社会教育館6階レクリエーションホール(目黒区目黒二丁目4番36号)


7月12日(金曜日)18時から20時まで

緑が丘文化会館本館2階第3研修室(目黒区緑が丘二丁目14番23号)


7月20日(土曜日)13時から15時まで

総合庁舎本館1階レストラン(目黒区上目黒二丁目19番15号


説明動画公開による意見募集

内容

説明会で使用する説明動画を「目黒区公式YouTubeチャンネルめぐろTV」で6月19日(水曜日)から公開し、意見を募集する予定です。

意見募集期間

令和6年6月19日(水曜日)から7月26日(金曜日)まで

意見の提出方法

都市計画課への提出、郵送、ファクス、電子メール、オンラインフォーム


追記・6月に第4回陳情を審査する委員の皆様

施設更新・DX等調査特別委員会


委員長 鈴木 まさし(自民)

副委員長 山村 まい(未来)

委員 上田 みのり(未来)

委員 橋本 しょうへい(立憲)

委員 岸 大介(自民)

委員 白川 愛(無)

委員 西村 ちほ(自民)

委員 はま よう子(公明)

Friday, 14 June 2024

イスティクラル通りのノスタルジックトラム

 2007年と2008年は何度かイスタンブールに滞在した。それは念願がかないイスタンブール都市交通MP調査に参加出来たからである。前会社の大先輩であり人生の大先輩のW総括の下、仕事と人生論が半々の様な、対象がイスタンブールということもあり、私の業務経歴の中でもとてもやりがいのあるプロジェクトだった。また、イスタンブール市役所側の対応も他の案件と比較しても待遇がずば抜けてよく、充実した業務スペースの提供とレベルの高いスタッフたちがアサインされた。

そのプロジェクトオフィスがベイオール地区、ペラパレス(アガサ・クリスティの常宿で1934年に発表されたオリエント急行殺人事件がこのホテルの411号室で執筆されたとされる)とトルコ国営テレビTRT(Turkish Radio and Television Corporation) Studiosの隣りのIMP(イスタンブール市役所の計画部門)があった。それゆえに住まいは最初はタクシム広場近くの、その後、オフィスに至近のペラパレスの裏のサービスアパートを借り徒歩通勤した。

オフィスからもアパートからもイスティクラル通りは近く、通勤や食事、散歩兼ウインドウショッピング、両替などなど、生活圏の商業地区であった。そこにTaksim-Tünel (T2) Nostalgia Tramwayが運行している。全長1.6km、タクシム広場とチュネルを結んでいる。

ベイオール地区は尾根状になっており商店街をトラムが走っている。両側は急峻な坂で、タクシム広場からボスポラス海峡沿いへはF1 Taksim–Kabataş funicular line(2006年開通)が、F2 Tünel (1875年開通)は、ガラダ橋の手前、丘の下のKaraköy- Tünel Squareを連絡している。

2008年夏は騒がしく、北京オリンピック(2008年8月8日から8月24日)が開催され、その陰で、南オセチア紛争(2008年8月7日から8月16日)が勃発した。イスタンブールでもこの時期、市内で爆弾テロが頻発していた。

イスティクラル通りのノスタルジックトラムは、1871年から馬車として運行が開始され、徐々に電化されていった。1960年代中頃に世界の大都市と同様に都市化の進展と自動車交通の普及に押されて廃止されたが、1970年代に都市交通問題が深刻化して、1980年代に入りイスタンブールは自動車交通規制へと舵を切り、世界の大都市と同様に軌道系公共交通機関の復権が行われ、1990年にイスティクラル通りが歩行者専用になった機会に24年の空白期間を経てTaksim-Tünel間、5停留所、1.6kmのノスタルジックトラムが復活した。この方針転換のターゲットはイスティクラル通りのトラムを含む市内のトラムの復活であった。現実的には観光トラムの性格が強いが、イスティクラル通りの演出に一役買っている。冬のイスティクラル通り、今もこんな風景であろう、この写真はタクシム広場を背にしてツュネル方向、タクシム広場に入る手前であろう。



Thursday, 13 June 2024

エチオピアのコーヒー豆産地ジンマ

 2017/6/13、エチオピアの西部、標高1800mのジンマ、ここはコーヒー豆の産地、アラビカ種の原産地とされるKaffa地区はここからさらに西方、ジンマは旧カッファ県の県庁所在地だった。

コーヒー豆は日本にも輸出されている。今回はコーヒー豆の買付ではなく、コーヒー豆の搬出のためのこのジンマ地区の輸送ルート、珈琲豆輸出廻廊整備案件の推進のため現地へ赴いた。コーヒー豆はジンマ商品取引所で競売にかけられ、その後陸路でアディスアベバを経てジブチ港まで輸送される。かつてのモカ港ではない。

写真はジンマの風景、モスクの尖塔が写っているが、エチオピア正教会も共存する、ホテルのバルコニーからの風景がこれだった。



ダマスカス旧市街のレストランBeit Jabri

 1998年、ダマスカス都市交通MP策定調査で年初から年末まで数ヶ月づつ3回滞在した。調査自体は1997年末から始まっていた。

1998年2月は長野オリンピック冬季大会(2月7日から2月22日)が開催された。前年、ブルガリアのソフィアで働いていて、その時の調査会社の社長に年末に挨拶に行ったら、長野オリンピックに行くから長野で会おうと誘われていた。冗談かと思ったが、実際にブルガリア代表のバイアスロン女子の監督だと言う、そう言えば冷静崩壊後もブルガリアは幾つかの種目で世界トップレベルであり、バイアスロン女子は長野で金メダルだった。至極残念だったが、丁度、1月下旬からハノイ出張(JBICのハノイSAPROF案件)が入って再会がかなわなかった。

シリアはこの時が2回目だった。ハノイ出張の後、3月に入ってダマスカスへ、プロジェクトオフィスはダマスカス市役所公共事業局内の事務所数室を間借りしていた。未だ寒く石油ストーブを毎日焚いていた。宿はマルジェ広場(シリアの国道原点)に面したオマールハイヤンというホテル、団員のダマスカス大学教授の紹介で教え子がホテルの経営者だった。

この時、多くの団員とシリア人やスタッフが関係していた。当時は、週休2日ではなく、木曜日が半休で金曜日が休日、9:00-17:00だったが我々は19:00頃まで仕事をして、それから皆で夕食を食べに行った。この時の食事をしながらの大先輩方との雑談がその日のまとめであり、翌日の日程確認となっていた。

一緒に働いていたシリア人はホスピタリティ溢れる方々が多く、休日でもダマスカス旧市街を案内されたり、家に招かれたり、また、時々皆さんとレストランで食事をした。その中でもダマスカス旧市街のレストランBeit Jabri(古くからあるコーヒーハウス)は強く印象に残っている。1998年7-8月だったと思う、団員だったダマスカス大学教授がここを推薦した。皆さんと食事をしたのは7月だったのだろうか、夏でも夜は肌寒くなるほど涼しかった記憶だ。