プラトンの弟子、アリストテレスはニコマコス倫理学の中で幸福な生活について述べている。
1.「倫理学とは」
義務論的倫理学>カント、人間は義務に基づいた行動をする必要がある。
幸福論的倫理学>アリストテレス、どうすれば人間は幸福になれるのか。
善とはあらゆるものが目指すもの、
善とは何か?>何か価値あるもの
目標を定めることによって、なすべきことを成し遂げる>為すべきこと=幸福
目的の連鎖>>>>幸福になる(手段にはならない、目的)=最高の善
手段と目的、手段と目的、
アリストテレスの学問分類
理論的学:目的>知識、自然学、形而上学
実践的学:目的>行為、倫理学、政治学
制作的学:目的>制作物、詩学、弁論術
倫理学は揺らぎのある変動
善いものは人々に災いを生じさせる
勇気や富はどんな場合でも善いとは限らない。
「おおまかに真実の輪郭を示すことができればよい」
例外的なことがあるからといってそれに捉われるのではなく、
たいていの場合に当て嵌まる次元で、揺らぎのある人生をバランスよく捉えていく。
認識ではなく、行為である。
2.「幸福とは」
教養があって行動的な人々は、幸福とは名誉のことだとみなしている。
しかし、名誉はあまりに表面的なものであって我々が探し求めているものではないように思われる。
あらゆる技術、あらゆる研究、
同様にあらゆる行為も、選択も、
すべてみな何らかの善を目指していると思われる。
三つの善
道徳的善>困っている人を助けるなど、道徳的によいもの
有用的善>お金など役に立つもの
快楽的善>楽しいなど、快楽を与えてくれるもの
一般大衆も教養のある人々もそれを幸福と呼んでおり、「よく生きる」ということを、
あるいは、「よくなす」ということを「幸福である」ことと同じものとみなしているからである。
真の幸福とは?人間の持つ機能に着目=理性(分別、物事を認識し判断する力)
理性を伴う生の活動、よく生きる、ことで幸福になる。
間接的、動物は「今ここ」に集中して生きているが、人間は「今ここ」だけでなく、視野を広げて生きていく、それが理性的となる。
持って生まれた能力や可能性をできる限り現実化して、充実した活動をする中に幸福が実現する。
理性という優れた能力を持つ人間、理性を十全に発揮することのうちに幸福が見いだされる。
理性をうまく活用することで本能などがよりよい仕方で花開いていく。
幸福とは完全な徳に基づく、魂のある種の活動である以上、われわれは次に徳について考察しなくてはならないであろう。
人々が考える幸福な生活は
1)快楽的生活>すなわち幸福と考える。
2)社会的生活>都市国家、ポリスという夜会の中でしかるべき役割を果たすということで自己実現していく、社会的生活の中で幸福が実現する。
3)観想的生活を行うこと>心理を認識することが人間の幸福にすると考えること
善く生きるために必要なもの、それは「徳」
徳というのは全て、それが備わるところのものを善き状態にし、
そのものに自分の機能をよく行うようにさせるとことのものだと言わなければならない。
たとえば、目の徳が、目と目の機能を優れたものにするように、なぜなら、我々は目の徳によってよく見ることができるからである。
人間をよくするための徳とは、
徳には思考に関するものと正確に関するものとの二種類があることになるが、
思考の徳はその生まれと成長とを主として「教示」に負っており、まさにそれゆえに経験と時間を要するが、
それに対して「性格の徳」は習慣から京成されるのであって、ここから「性格の(エーティケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させて作られたのである。
アレテー(徳)、卓越性、力量とも訳される、物が持っている能力を最大限高めて充実した働きができる、それが徳を持っている状態。
可能性を実現していくため、善く生きるためには徳が必要でる。
人間の場合、節制や勇気といった徳を身に付けることで人間の力がつく。
元々、持っている可能性が現実化して充実した働きができるようになる、
幸福な人生を送る必要条件になる。
思考の徳(知的徳):教示で身に付く
性格の徳(倫理的徳):習慣で身に付く(勇気、勇敢)
徳、人間が持っている能力を育てることによって身につく、持っている状態、教示で身につく思考の徳=知的能力、節制や勇気など習慣で身につく性格の徳=倫理的徳、これらが幸福な人生を送る必要条件となる。
重要な徳=枢要徳
賢慮(判断力)、
勇気(困難に立ち向かう力)、
節制(欲望を規制する力)、
正義(他者、共同体をおもんじる力)、
全ての徳が力として捉えられていることが重要ポイント。
徳という力、節制、を身に付けると、我慢ではなく自らの力の充実、社会の中で実現する充実を手に入れるための節制となる。徳を身に付けて得られる幸福
人間としての内的な力が必要であり、自らをコントロールし困難にも立ち向かう、力を身に付けることが幸福になるための前提条件、
長い習慣づけの積み重ねが必要
3.「徳と悪徳」
徳は生まれつき持っているわけではない、人間の本性に反しているわけでもない、人間が元々持っている素質、資質、人間であれば誰でも持っている勇気や節制などを身に付ける可能性を一回一回の行為の積み重ねを通じて現実化していくことで徳が身に付く。
万人が幸福になる可能性になる素質を持って生まれてくる。
節制の資質は持っていて、習慣の積み重ねできちんと節制できるようになる。
徳をどのように身に付けていくのか?
様々な技術と同様、我々はその行為を現実化することによって身に付けるのである。
例えば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。
まさに、これと同様に、正しいことを行うことによって、我々は正しい人になり、節制あることを行うことによって、節制をある人になり、また、勇気あることを行うことによって、勇気ある人にあるのである。
繰り返し、成功体験が次につながる。
悪徳
人と人の交渉におけるいろいろな事柄を行うことによって、我々は正しい人間になったり、不正になったりするからである。
また、恐ろしい状況におけるもろもろの事柄を行いながら、恐れることや自信を持つことを習慣づけられて、我々は勇敢な人間になったり、臆病になったりするからである。
1回の成功体験が2回目に繋がる、「徳」が身に付くと「素早くできるようになる」、「喜びを感じる」
「徳」ある人をモデルにして初めて「徳」は身に付く
モデル=両親
悪徳も習慣で身に付く。
似たような状況に直面した時に逃げやすくなる何かができてくる。
要するに一言でいえば、同じような活動の反復から人の性格の状態が生まれるのである。
したがって、若い頃かから直ちにどのようにどのように習慣づけられるかは、些細な違いを生むものではなく、極めておおきな、いやむしろ全面的な違いを生むといってよいであろう。
育った環境で決まってしまう。
アリストテレスは「悪徳」を変更する困難さを語っている。「悪徳」はまったく変更が不可能なわけではなく、少しでも良い、少しでも悪さの度合いの低い選択肢を選ぶ、
節制;自分の欲望をコントロールする力
アリストテレスの分類;
1)食べないブレない、2)葛藤の末に食べない、3)葛藤の末に食べる、4)欲望のままに
「有徳な人」と「悪徳の人」の相違
理性の支配
節制ある人;節制ある振る舞いを喜ぶ、葛藤がない。
抑制ある人; 理性と欲望が葛藤しつつ、理性が打ち勝つ
抑制ない人;理性と欲望が葛藤しつつ欲望が打ち勝つ
ここまでが有徳
放埓な人; 欲望のままに振る舞う、葛藤がない
悪徳
過剰な運動も運動の不足も身体の強さを損なうし、同様に食べ過ぎや飲み過ぎも、逆に飲食の不足も健康を損なうのであって、適度な量が健康を作り出し、増進し、保全するのである。
超過>中庸>不足
中庸がよい。少しでも良い在り方、悪さの度合いの低い在り方、を選び続けていく。
4.「友愛」
人と人とを結びつける愛、
人間とは社会的な存在であって、他社とともに生きる自然本性を持っているからである。
アリストテレスの政治学、一人で生きるのは野獣か神である。人と共に生きて初めて人間である、人間は根本的に社会的な存在
友愛は徳の一種であるか、徳を伴うものであり、さらにそれは、我々の人生に最も必要なものだからである。
実際、愛する友なしには、たとえ他の善きものをすべてもっていたとしても、誰も生きてゆきたいとは思わないであろう。
善いもの>道徳的善
快いもの>快楽的善
有用なもの>有用的善
善というものが人と人とを結びつける、それが愛の対象となる。
成り立ち、人と人、人と無生物
1)相手に好意を持ち善を持つ
2)相手もこちらに好意を抱いている、相互性
3)互いに相手の思いに気づいている
>>>友愛
他者の善を悲しむ=嫉妬、弁論術の中で述べている。
三つの友愛
1)人柄の善さに基づいた友愛
2)有用性に基づいた友愛
3)快楽に基づいた友愛
人柄に基づく友愛は有用性も快楽も全部含んでいる。
100分de名著「ニコマコス倫理学」