Thursday, 30 June 2022

フリッツハンセンFritz Hansenのチェア

フリッツハンセンの家具をどこで最初に目にしたのか、家具の雑誌だったのか、1980年代だと思うが、IKEAはなくアクタスという家具屋が扱っていた。渋谷公園通りを登り切った右側、渋谷公会堂の前のビルの地下だったと思う、にあった。新宿は伊勢丹の駐車場近くだった。

さて、このフリッツハンセン、どんな家具なのか?

アクタスのフリッツハンセンFRITZ HANSEN
https://online.actus-interior.com/brand/fritzhansen/

上記より、
「1872年にデンマークで創業したフリッツ・ハンセンは、家具、照明、アクセサリー小物のデザインと製造においてグローバルリーダーとしてのポジションを担っています。
美しさと品質、そして職人技の追求への情熱に駆り立てられ、私たちは世界中のアーティストやデザイナー、建築家らとコラボレーションし、モダンな北欧のライフスタイルを表現し続けています。私たちはこれまでに、アルネ・ヤコブセン、セシリエ・マンツ、ハンス・J・ウェグナー、ピエロ・リッソーニ、ポール・ケアホルムを含む著名なデザイナーとコラボレーションし、コレクションアイテムを誕生させてきました。」
とのこと。

北欧の小国、デンマーク、人口580万人の小国ながら、著名な産品が目に付く、ロイヤルコペンハーゲンもそうだ。北欧家具を代表しているのだろうが、フリッツハンセンが北欧家具の代表なのか、北欧家具がフリッツハンセンを代表しているのか定かではないが、北欧家具のシンプルな機能的なデザイン、ビーチを(ナラ材)を化粧に使った家具が心地よく私の目に映った。

お手軽なのがフリッツハンセンのチェアである。著名なのはセブンチェアがあるが、最近、視野に入った(遅すぎるが)Vico DUOも惹かれる。この椅子、重ねられることもあり会議室用にも使われていたのであろう、その中古が時々出回っているが程度が良いのは稀である。

フリッツハンセンのVico DUO
https://www.fritzhansen.com/en/Categories/By-Series/Vico-Duo/vico-duo-vm111-not-upholstered-4-legs-w-arms

Vico DUOはイタリア人のデザイナー、ヴィコ・マジストレッティの生誕100周年を記念して、フリッツ・ハンセンが復刻したヴィコデュオチェア。ヴィコデュオは、1997年にマジストレッティがフリッツ・ハンセンのデザインルームで自身のスケッチに囲まれた状態でデザインし誕生した成形合板のスタッキングチェアとのこと。

座面は形成合板であり、セブンチェアと同様にカーブが美しく座りやすい、アームがついているのだが、線が細そうだがしっかりしたスチールパイプでできているし、その曲線も美しい。

1998年にフリッツハンセンのセブンチェアとテーブル、ビーチを購入した。ロングセラーで今も販売されいている。当時、販売していたのは一時IKEA日本にも関わっていたアクタスという家具屋だった。このアクタス、資本に変化はあるが、今はコクヨの傘下、存続している。当時、渋谷公園通りの渋谷公会堂の前と新宿伊勢丹の駐車場の近くにあった。新宿店のがショールームが広かったので何度か通った。

一緒にデンマーク製のソファ用のテーブル、スウェーデン製のソファも買った。 最近、アクタスがららぽーと豊洲の中にあるのを知って見に行ったことがあるが、この手の家具は取り寄せで展示は限定的だった。しかしだ、お値段が倍近くなっていたのには驚いた、どこがデフレなんだ、まあ輸入品だからなのか。

Vico Duo


Vico Duo

 

Wednesday, 29 June 2022

ダマスカス旧市街とウマイヤドモスク(2006年)

 【ダマスカス旧市街】(mixiより2006年11月10日)

何年かぶりにスークハミディエからウマイヤドモスク、その横イエスの塔を経てバプトゥーマ(トーマス門)まで記憶を頼り歩いた。
 
同行した人が気になったのが派手なランジェリーのディスプレイ、家と同じように内側を着飾るのがイスラム文化だと説明しておいたが果たしてそうだろうか?
ウマイヤドモスクでは50SPの入場券を購入(サラディーン廟の横)して北門から中へ入った。聖なる場所へ足を踏み入れるのは緊張する。ウマイヤドモスクの中には聖ヨハネの骨が収められているお墓が存在する。ローマ神殿からキリスト教の教会、そして、イスラム教のモスクへとの建物が変遷してきた歴史を垣間見られる。
 
ウマイヤドモスクの南、イエスの塔に向かう通りはダマスカスの工芸品点が並んでいる。寄木細工はその代表的なもの。道沿いに歩いていくと門があり、階段を降りて旧市街の奥へと進む。
 
階段の右側にはカフェがあり、アレギレ(水タバコ)を楽しむ人でにぎわっている。さらに
歩いていくと、ローマ時代の門の跡があり、このあたりから旧市街の生活が感じられる。ビデオ屋やシリアのパイ(ピデ)を焼く店、電気屋、グローサリーなどが並んでいる。
 
イスラム学校の前には水のみ場が設けてある。このあたりに、イスラム療法の病院が以前あったと聞いたが定かではない。途中、シリアのピデをつまみながら、旧市街の生活に触れる。
 
道を間違えて、アルメニア教会とハマームを見損なってしまったが、難なくバプトーマへ着いた。その先はキリスト教地区だ。

Sunday, 26 June 2022

中央区の亀島川に架かる南高橋(みなみたかばし)

中央区新川の南高橋、読み方は、みなみたかばし、元両国橋の一部を使ったものでした。両国橋は関東大震災で被災、損害の少なかった三連トラスの中央部を使って昭和7年に現在の地に橋を架けたのが南高橋。都内で2番目に古い鉄鋼トラス橋。気になっていたのはこれでした。

写真は拾い物なので差し替える


都内で一番古い鉄鋼トラスは京橋区の楓川に架かっていた弾正橋(宝町付近)、米国人ウイップルの形式で工部省が設計・施工し、明治11年に架けられ、大正2年に北側に新しく弾正橋が架けられ、元弾正橋となり、関東大震災復興計画で廃橋になった。

この技術的重要性から昭和4年に富岡八幡宮の隣に移設し、八幡橋という名称になった。橋はアーチ材を鋳鉄製、引張材は錬鉄製という鋳錬混合の独特な構造手法であり、近代橋梁史上、技術史上においても価値の高い橋。米国土木学会より1989年に「土木学会栄誉賞」が授与された。
八幡橋(旧弾正橋)

Saturday, 25 June 2022

ソ連邦時代のキエフー遠い記憶より

 1985年7月10日、早朝、モスクワから乗った夜行列車ドニエプル号は「ゴトン、ゴトン、ゴトン」とドニエプル川の鉄橋をゆっくりと渡り、その先のキエフ駅へ滑り込んで行った。外国人旅行者は、ソ連邦国内では自由な移動が制限されており、駅や空港に付いたらインツーリストオフィスへ行くことになっていた。そこには、予約した私の名前があり、予約したスケジュールに沿って交通機関やホテルが手配されていた。それはそれで素晴らしいと思ったが、予定を変更すとどうなるのか、試す勇気はなかった。

というのもキエフに来るまでに既に警察(ミリツィア)の世話になっていた。これはハバロフスク駅前で写真を撮っていてミリツィアにみつかり警察署へ連行され、危うくシベリア鉄道に乗り遅れ、ハバロフスクに置いてきぼりにされかけたところを間一髪で予定通りのロシア号に間に合ったのだ、正確には1時間程度もロシア号を待たせた、これは、添乗していたインツーリストのスタッフ(当時はウラジオストク極東大で日本語を学んでいた女学生、夏休みだったので国家に奉仕するアルバイトだった)がぎりぎりまで待たせてくれたからに他ならない。

 

列車がキエフ駅のホームに停車し、東独製の4人用のコンパートメントからバックパック用の荷物を担いで列車を降り、ゆっくりと周囲を眺めながら駅のインツーリスト事務所へ行った。あまり記憶に残っていないのはその風景に慣れてしまったのだろうか、インツーリストで少し待っていると、タクシー(ヴォルガ)が来たと英語で知らせてくれた。モスクワに着いたときは日本語を話すスタッフ(モスクワ大学の女子学生で東京に滞在経験があり、NHKのロシア語番組に出演していたと話してくれた。)がいたが、キエフでは英語だった。そして手配されたタクシーはソ連製のボルガ、白だった記憶だが、のタクシーでキエフの中心に位置するインツーリストホテル(だったと思う)へ向った。

 

どこをどうやってどの程度の時間をかけてホテルに辿り着いたのか覚えていないが、駅を出た時に振り返ったら駅舎全体が見えたのでシャッターを押した。窓からなのか、後ろの窓越しなのか、この角度だと後ろの窓越しかな。この写真も恐る恐るシャッターを押したことは間違いない、なのでシャッターを切ったのは1枚か2枚だけだった。

 

朝は曇っていたが、その後、晴れてきた。インツーリストホテルのツアーデスクで市内観光ツアーがあるのというので半日英語ガイドコース(確か6米国ドル)に乗った。キエフはマロニエの花が咲きほこり、緑の中に都市があった。途中、ソ連の構造主義的な巨大な彫刻が建っているドニエプル川を見下ろす丘があり、眼下にその日の朝、鉄道で渡ってきた鉄橋が見え、その先に白い巨大なアパート群が見えた。

キエフの記憶より。

デジタルハイビジョンチューナー内蔵HDD搭載ブルーレイディスク/DVDレコーダー

デジタルハイビジョンチューナー内蔵HDD搭載ブルーレイディスク/DVDレコーダー、こういうふうに表現するんだな、正式には。

SONY BDZ-RX55、2010年3月のモデル、HDDの容量500GBを後に2TBに換装、問題なく使える。
https://www.sony.jp/bd/products/BDZ-RX55/spec.html

Thursday, 23 June 2022

エアコンのフィルター掃除

 集中力を欠いているのは、ケアレスミスが続いているのは、この蒸し暑さが影響しているのだろうか?

子供の頃はエアコン等なく、扇風機だけで夏を過ごしたが、昨今、なぜだか蒸し暑い、尋常ではなく。

ふと思い出してエアコンのフィルターを掃除しようと思い立った。詰まっているとエネルギー効率が落ちるし、昨年、掃除したかどうか、記憶にない。

先ずは居間の天井嵌め込み型のエアコン、外し方がわからなくて取説を読んだ。ベランダでブラシで埃を洗い落としてから水洗い、陰干しした。


その勢いで翌日は居室のエアコン2台の。


埃の量からすると数年は掃除していないのではないかと思うほど埃が詰まっていた。エアコンは冷房のみに使っているのでシーズン前に掃除するように!ちなみに暖房は床暖房だけで十分である。

Wednesday, 22 June 2022

国道4号線で栃木県下野市祇園(自治医大駅)へ

 栃木県下野市祇園、自治医科大がある、最寄り駅が自治医大駅、のガーデンBBQにお誘いを受けたので車で行ってみた。国道4号線で目的地まで97㎞と表示された。国道4号線=日光街道、日中なので3時間ほどはかかるだろうとの予測、実際には3時間半かかった。

お開きの時に聞いたが、JRは休日割引切符(休日おでかけパス)があった。

さて、ウチからは目黒通り、桜田通り、札ノ辻から第一京浜、昭和通り上のへ向かって北上した。

 
上野の先へは行ったことがない。ひたすら国道4号を北上、国際通りが合流し、その先の明治通りとの三ノ輪交差点がボトルネックになり渋滞、この手前の流れが非常に悪い。
 
 三ノ輪交差点を過ぎて常磐線をくぐり、隅田川に架かる千住大橋、荒川に架かる千住新橋を渡る。4車線なのだが信号が多く、平均速度は上がらない。ひたすら北上、環状7号をくぐり、足立区から埼玉県草加市へ、ここまで既に1時間経過。
 
 
 
草加に入っても平均速度は上がらず、信号待ちの連続、外環の下を通過しても変わらず、草加バイパスとは名ばかりなり、と思いながら、沿道を眺めながら北上する。越谷に入り、浦和ICへの標識があったが、その程度なのかとがっかり。沿道の風景は変わらず、市街地が続いている。
 
 
春日部に入り、古利根川を渡ったあたりから田園風景になり、信号が少なくなり一気に平均速度が上がった。 ここまで埼玉県に入ってから1時間経過、出発してから2時間以上かかっている。春日部古河バイパスなのだろう。圏央道の五霞ICにを通過し、利根川を渡ると茨城県古河市に入り、しばらく北上すると栃木県小山市へ、そのまま北上、この辺りは高速と同じくらいの走行速度が維持でき距離が稼げる。

 
薬師寺交差点から自治医大駅方面へ、目的地は祇園小学校の近く、下野市の住居表示は京都のようだ。所要時間3時30分、3時間を切れるかと思ったが思いのほか、4車線道路ながら足立区から埼玉県通過が信号が多く速度が上がらなかった。
 
走行距離:97㎞
所要時間:3:30
平均速度: 28㎞/h
燃費:9.0km/L
 
復路は五霞ICから圏央道、東北道、首都高の中央環状線富谷ICで山手通り、自宅へ。圏央道は片側1車線が多く、また、白線が見えず、夜の小雨は走り難い。

五霞ICから圏央道、久喜白河JCTから東北道へ、

川口JCTを直進し、首都高川口線から江北JCTから首都高中央環状線(C2)へ、王子駅、飛鳥山を通過し、板橋JCTから東名方面へ中央環状線を直進、ひたすらトンネル内を走り、富谷ICで下り、山手通りへ。


走行距離:114㎞
所要時間:2:09
平均速度: 53㎞/h
燃費:12.7km/L、有料道路:2370円
鉄道と概ね同じ所要時間でした。

国道4号線走行メモ。Googleマップの画像は帰宅した時のもの。

Monday, 20 June 2022

上品な甘さの枇杷の実

母が育てていた枇杷、たくさん実ったので妹が送ってくれた。ほのかな甘み、痛み易いので枇杷は一瞬の旬の果物。




枇杷(biwa)、季節です、誰も採らない。Eriobotrya japonica or (Japanese) Loquat in English. 渋谷川沿い、コンクリート3面張りで風情無いですが。


 



Sunday, 19 June 2022

明治神宮外苑の再開発事業

銀杏並木の美しい明治神宮外苑(大正15年築)、港区北青山と新宿区霞ヶ丘に跨る、土地の所有者である明治神宮と三井不動産、伊藤忠商事、日本スポーツ振興センターが神宮球場と秩父宮ラグビー場の建替えを踏み台にした高層ビル3棟を含む再開発事業の手続きが進められている。

 
神宮球場を銀杏並木横に14階建ホテル付で建替え、神宮球場跡地には80mのビルへ、青山通りに面している90mの伊藤忠本社ビルを38階建190mへ、秩父宮ラグビー場は現在の神宮球場の跡地に屋根付で建替え、秩父宮ラグビー場跡地に40階建て185mへ、という計画。

 
事業には多くの樹木の伐採を含み大正15年建設の神宮外苑という約100年の歴史的空間を大きく変更しようとするものであり、事業認可権を持つ東京都のコモンセンスと良心が問われる。
https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20220520a.html

Friday, 17 June 2022

幸福な生活とは?アリストテレスのニコマコス倫理学

プラトンの弟子、アリストテレスはニコマコス倫理学の中で幸福な生活について述べている。

1.「倫理学とは」

義務論的倫理学>カント、人間は義務に基づいた行動をする必要がある。
幸福論的倫理学>アリストテレス、どうすれば人間は幸福になれるのか。

善とはあらゆるものが目指すもの、
善とは何か?>何か価値あるもの

目標を定めることによって、なすべきことを成し遂げる>為すべきこと=幸福

目的の連鎖>>>>幸福になる(手段にはならない、目的)=最高の善
手段と目的、手段と目的、

アリストテレスの学問分類
理論的学:目的>知識、自然学、形而上学
実践的学:目的>行為、倫理学、政治学
制作的学:目的>制作物、詩学、弁論術

倫理学は揺らぎのある変動
善いものは人々に災いを生じさせる

勇気や富はどんな場合でも善いとは限らない。
「おおまかに真実の輪郭を示すことができればよい」

例外的なことがあるからといってそれに捉われるのではなく、
たいていの場合に当て嵌まる次元で、揺らぎのある人生をバランスよく捉えていく。

認識ではなく、行為である。

2.「幸福とは」
教養があって行動的な人々は、幸福とは名誉のことだとみなしている。
しかし、名誉はあまりに表面的なものであって我々が探し求めているものではないように思われる。

あらゆる技術、あらゆる研究、
同様にあらゆる行為も、選択も、
すべてみな何らかの善を目指していると思われる。

三つの善
道徳的善>困っている人を助けるなど、道徳的によいもの
有用的善>お金など役に立つもの
快楽的善>楽しいなど、快楽を与えてくれるもの

一般大衆も教養のある人々もそれを幸福と呼んでおり、「よく生きる」ということを、
あるいは、「よくなす」ということを「幸福である」ことと同じものとみなしているからである。

真の幸福とは?人間の持つ機能に着目=理性(分別、物事を認識し判断する力)

理性を伴う生の活動、よく生きる、ことで幸福になる。

間接的、動物は「今ここ」に集中して生きているが、人間は「今ここ」だけでなく、視野を広げて生きていく、それが理性的となる。

持って生まれた能力や可能性をできる限り現実化して、充実した活動をする中に幸福が実現する。

理性という優れた能力を持つ人間、理性を十全に発揮することのうちに幸福が見いだされる。

理性をうまく活用することで本能などがよりよい仕方で花開いていく。

幸福とは完全な徳に基づく、魂のある種の活動である以上、われわれは次に徳について考察しなくてはならないであろう。

人々が考える幸福な生活は
1)快楽的生活>すなわち幸福と考える。
2)社会的生活>都市国家、ポリスという夜会の中でしかるべき役割を果たすということで自己実現していく、社会的生活の中で幸福が実現する。
3)観想的生活を行うこと>心理を認識することが人間の幸福にすると考えること

善く生きるために必要なもの、それは「徳」
徳というのは全て、それが備わるところのものを善き状態にし、
そのものに自分の機能をよく行うようにさせるとことのものだと言わなければならない。
たとえば、目の徳が、目と目の機能を優れたものにするように、なぜなら、我々は目の徳によってよく見ることができるからである。

人間をよくするための徳とは、
徳には思考に関するものと正確に関するものとの二種類があることになるが、
思考の徳はその生まれと成長とを主として「教示」に負っており、まさにそれゆえに経験と時間を要するが、
それに対して「性格の徳」は習慣から京成されるのであって、ここから「性格の(エーティケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させて作られたのである。

アレテー(徳)、卓越性、力量とも訳される、物が持っている能力を最大限高めて充実した働きができる、それが徳を持っている状態。
可能性を実現していくため、善く生きるためには徳が必要でる。

人間の場合、節制や勇気といった徳を身に付けることで人間の力がつく。
元々、持っている可能性が現実化して充実した働きができるようになる、
幸福な人生を送る必要条件になる。

思考の徳(知的徳):教示で身に付く
性格の徳(倫理的徳):習慣で身に付く(勇気、勇敢)

徳、人間が持っている能力を育てることによって身につく、持っている状態、教示で身につく思考の徳=知的能力、節制や勇気など習慣で身につく性格の徳=倫理的徳、これらが幸福な人生を送る必要条件となる。

重要な徳=枢要徳
 賢慮(判断力)、
 勇気(困難に立ち向かう力)、
 節制(欲望を規制する力)、
 正義(他者、共同体をおもんじる力)、

全ての徳が力として捉えられていることが重要ポイント。
徳という力、節制、を身に付けると、我慢ではなく自らの力の充実、社会の中で実現する充実を手に入れるための節制となる。徳を身に付けて得られる幸福

人間としての内的な力が必要であり、自らをコントロールし困難にも立ち向かう、力を身に付けることが幸福になるための前提条件、
長い習慣づけの積み重ねが必要

3.「徳と悪徳」
は生まれつき持っているわけではない、人間の本性に反しているわけでもない、人間が元々持っている素質、資質、人間であれば誰でも持っている勇気や節制などを身に付ける可能性を一回一回の行為の積み重ねを通じて現実化していくことでが身に付く。

万人が幸福になる可能性になる素質を持って生まれてくる。
節制の資質は持っていて、習慣の積み重ねできちんと節制できるようになる。

徳をどのように身に付けていくのか?
様々な技術と同様、我々はその行為を現実化することによって身に付けるのである。
例えば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。

まさに、これと同様に、正しいことを行うことによって、我々は正しい人になり、節制あることを行うことによって、節制をある人になり、また、勇気あることを行うことによって、勇気ある人にあるのである。

繰り返し、成功体験が次につながる。

悪徳
人と人の交渉におけるいろいろな事柄を行うことによって、我々は正しい人間になったり、不正になったりするからである。
 
また、恐ろしい状況におけるもろもろの事柄を行いながら、恐れることや自信を持つことを習慣づけられて、我々は勇敢な人間になったり、臆病になったりするからである。

1回の成功体験が2回目に繋がる、「徳」が身に付くと「素早くできるようになる」、「喜びを感じる」
 
「徳」ある人をモデルにして初めて「徳」は身に付く
 
モデル=両親

悪徳も習慣で身に付く。
似たような状況に直面した時に逃げやすくなる何かができてくる。
 
要するに一言でいえば、同じような活動の反復から人の性格の状態が生まれるのである。
したがって、若い頃かから直ちにどのようにどのように習慣づけられるかは、些細な違いを生むものではなく、極めておおきな、いやむしろ全面的な違いを生むといってよいであろう。
 
育った環境で決まってしまう。
 
アリストテレスは「悪徳」を変更する困難さを語っている。「悪徳」はまったく変更が不可能なわけではなく、少しでも良い、少しでも悪さの度合いの低い選択肢を選ぶ、
 
節制;自分の欲望をコントロールする力
 
アリストテレスの分類;
1)食べないブレない、2)葛藤の末に食べない、3)葛藤の末に食べる、4)欲望のままに
 
「有徳な人」と「悪徳の人」の相違
理性の支配
節制ある人;節制ある振る舞いを喜ぶ、葛藤がない。
抑制ある人; 理性と欲望が葛藤しつつ、理性が打ち勝つ
 
欲望の支配
抑制ない人;理性と欲望が葛藤しつつ欲望が打ち勝つ
ここまでが有徳
放埓な人; 欲望のままに振る舞う、葛藤がない
悪徳 

過剰な運動も運動の不足も身体の強さを損なうし、同様に食べ過ぎや飲み過ぎも、逆に飲食の不足も健康を損なうのであって、適度な量が健康を作り出し、増進し、保全するのである。
 
超過>中庸>不足
中庸がよい。少しでも良い在り方、悪さの度合いの低い在り方、を選び続けていく。

4.「友愛」
人と人とを結びつける愛、
人間とは社会的な存在であって、他社とともに生きる自然本性を持っているからである。

アリストテレスの政治学、一人で生きるのは野獣か神である。人と共に生きて初めて人間である、人間は根本的に社会的な存在

友愛は徳の一種であるか、徳を伴うものであり、さらにそれは、我々の人生に最も必要なものだからである。

実際、愛する友なしには、たとえ他の善きものをすべてもっていたとしても、誰も生きてゆきたいとは思わないであろう。

善いもの>道徳的善
快いもの>快楽的善
有用なもの>有用的善

善というものが人と人とを結びつける、それが愛の対象となる。

成り立ち、人と人、人と無生物

1)相手に好意を持ち善を持つ
2)相手もこちらに好意を抱いている、相互性
3)互いに相手の思いに気づいている
>>>友愛

他者の善を悲しむ=嫉妬、弁論術の中で述べている。

三つの友愛
1)人柄の善さに基づいた友愛
2)有用性に基づいた友愛
3)快楽に基づいた友愛

人柄に基づく友愛は有用性も快楽も全部含んでいる。

100分de名著「ニコマコス倫理学」
















Thursday, 16 June 2022

背中のNikon D3+AFS Nikkor 17-35mm f2.8が滑落

 横田基地日米友好祭の帰路、拝島駅まで途中から雨に降られながら歩いたのだが、初めての駅、既に電車が待っていた。

カメラとレンズ、かなり重い機材なのでD3とAF-S VR Nikkor 70-200 f2.8を一緒に滑り出さないように重心を下にしてデイパックに入れたつもりだったが、、、。

やや慌てて階段を上り、改札を通過してホームへの階段降り始めた時に背中に背負っていたデイパックからNikon D3+AFS Nikkor 17-35mm f2.8が滑落、ゴツンと鈍い音とともにガラスが割れる音がした。何だと思ったら足下に私のD3が転がっている。

時計を見て出発時間まで10分あったのに見間違えてやや、階段を降り始めた時だった。

本体の電源は入るがレンズの動作は音がする、しょうがないのだが。

それで、新宿のニコンサービスセンターへ持ち込んでどんなものなのかと相談したところ、既にD3は部品供給なく、修理不可、17-35㎜レンズは修理可能、しかし、確認を依頼した時点から料金が発生するとのこと、口頭で、この場合は9万円以上はかかるとのこと、それで修理はあきらめた。同じレンズはヤフオクを見たら4-5万円で売りに出ていた、それ以前に手元にあるレンズを使おう、先ずは。

軽いカメラに更新したいと考えていたのだが、そろそろ真剣に検討するタイミングなのか。

元々このD3、中野のフジヤカメラで2010年か2011年に購入したもの、バッファ付き中古で28万円程度だったと思う。同じタイミングで17-35㎜ f2.8の広角レンズをヤフオクで、10万円程度だったと思う。合計38万円相当、10年程度保有したことになるが、試用期間はその2ー3割だろうか、やはり重いのと海外勤務期間が長かったので携行には苦労した。

IATAの機内手荷物規格の変更で重い荷物は持ち込めないので国内での使用が主だった。それでもパラグアイには携行したな。

重いので滑落しやすい。この滑落を含めて3回、
1)イタイプダムで、机の上から滑り落ちた、レンズから落ちたので本体は無事だった。
2)肩にかけていたのが滑り落ちた、聖路加病院から築地場外へ歩いている途中に、
3)そして今回、拝島駅の階段を下りているときに、しょっていたデイパックのなかから滑り出た。 

新宿エルタワーのニコンサービスセンター、、、。

Wednesday, 15 June 2022

南太平洋島嶼国14か国の地理的位置

 南太平洋島嶼国(深層News)、14カ国あるそうだ。地図で見ないとわかりにくい。

仏領ニューカレドニアがバヌアツの南だったのか、ハワイはかなり東に位置する。仏領ポリネシアのタヒチは表示されていないが、右端、ハワイより経度では東に位置する。

目黒競馬場跡とトゥルヌソル像 (サラブレッド牡種馬)

目黒競馬場跡のことは何度か下記のとおりメモを残している。今回、その跡地に建つトゥルヌソル像について補足を。

区報でみかけた明治40年に開設された目黒競馬場、昭和7年に第一回日本ダービーが開催され、翌昭和8年の第2回日本ダービーの後に府中へ移転した。跡地は公的機関や民間会社の社宅、民家となっている。その後、その公的機関や社宅が売却され、共同住宅や戸建て住宅に様変わり。目黒競馬場があったという痕跡は、バス停と信号機に元競馬場、また、渋72系統バスが通る元競馬場通りという名称、そして当時のトラック沿いの桜が数本残っている。

画像
目黒区報2022年5月15日号16頁
 目黒通り元競馬場交差点脇に建つ目黒競馬場跡碑

元競馬場交差点、競馬場があった下目黒側に第一回日本ダービー優勝馬の種牡馬のトゥルヌソル(仏語でヒマワリ)像が目黒競馬場跡の碑の上に建っている。

トゥルヌソルはサラブレッド種、英国の競走馬として優良な血統を持つ馬で1927年に種牡馬として日本にやってきた。祖父バヤルドはイギリス三冠馬となったゲイクルセイダーとゲインズバラの父で、1915年、ゲインズバラはイギリスで三冠を達成し1925年から1927年まで英国の種牡馬ランキング4位になっている。

トゥルヌソルはこの時期に活躍した馬で、1926年にプリンセスオブウェールズステークス等に勝ち、1927年のアスコットゴールドカップ4着のあと脚部故障により引退したのを機に、宮内省により購入され、千葉県三里塚の下総御料牧場に繋養された。

これだけの血統を持つ馬を、この時代の日本に輸入し、日本産サラブレッドの礎とすることができたのは、当時の競馬や馬産のみならず、後世の日本の馬畜産業にとっても最大級の幸運であったと言われている。

 


wiki等を参考に編集

 

Saturday, 11 June 2022

ルーマニア・ドナウ黒海運河ルートがウクライナ穀物の代替輸送ルートとして再浮上か?

 ルーマニアルートがウクライナ穀物の代替輸送ルートとして再浮上か?何れにしろドナウ河川港までトラックか鉄道輸送になり、そこからバージでコンスタンツァ港へ。内航水運ならトラックの100台分程度は一つのバージで輸送出来る。

NHK国際報道2022

https://www.bloomberg.com/news/features/2019-10-27/the-canal-of-death-is-now-an-economic-gateway-for-eastern-europe

今日のルーマニアルートはドナウ水運であるドナウ黒海運河ルートを示唆していた。4月頃はウクライナのドナウ河川港であるイズマイル港迄だったが。ドナウ黒海運河はドナウ川のチェルナヴォダが起点、2運河に分岐し、コンスタンツァとナボダリで黒海に通じ、本線は64.4km。ドナウデルタ地帯は河口が安定せず浅いのでこの運河に優位性がある。運河の途中、メドジディアとムルファトラルに河川港があり、 3千トンバージ6隻停泊が可能である。1航行で18千トンの輸送ができる。
 
運河は長さ138 m (453 ft)、幅16.8 m (55 ft)、喫水5.5 m (18 ft)まで航行可能であり、チェルナヴォダ、アジジャ、オビディウ、ナボダリの4カ所に閘門がある。チャウシェスク時代の1987年に全線が完成した。
 
モルドバ経由の広軌鉄道が敷設されているルーマニアのガラティ迄ウクライナから行け、ドナウ河川港であるガラティ港からドナウ水運という案があったが、直ぐには使用できる状況ではないのだろうか。

オデッサ港とミコライエフ港が使えないのはウクライナ軍がロシア軍の上陸を防ぐために機雷を敷設したから、これを除去しないと船が航行できないが、ロシア軍の揚陸機会との天秤。なぜゆえにこんなことになってしまったのか、今更だが考えずにはいられない。

初回1989年の再放送「鯉よ!大瀑布をのぼれ -ザンビア・日本青年の記録-」を観て

1989年放映の再放送の案内が回って来たので録画しておいた。

何かと情報の質に問題がある点も見えてくるが、遠い国なので当時も今も変わらないだろう、よく取材しにきたものだ。今、1988年取材のこの放送を再放送するということは、30数年の時間が経過しているが、その間に再度、取材をしたことがない、ということなのだろう。

「鯉よ!大瀑布をのぼれ -ザンビア・日本青年の記録-」
初回放送日: 2022年6月7日
1965年に始まった青年海外協力隊は、世界中で開発途上国のために懸命に働いてきた。その活動を中央アフリカのザンビアで取材し、異なった風土の中で若者たちが挑戦し、苦闘し、成長していく姿を描いたドキュメント。食糧難を解決しようと鯉の養殖に夢を託す農業技術者や、野性動物保護のため日夜サバンナを走る生態調査官、学校で家畜の飼育を教える教師など、多様な役割で活動する青年たちが登場する。


既に画面サイズが昭和、しかも背景が赤


いきなり祈祷師(ウィッチドクター)、先入観だろうが実際にもいた。


ここでタイトル、ビクトリアフォールズに鯉は登れないし、この辺の流れの速いザンベジ川に鯉は生息しているのか?ビクトリアフォールズの高さは90m程度だったと思う、幅は1600m。


ザンビアの位置、内陸国であるが、中央アフリカという呼び方はしない、同名の国が存在するし、南半球なので通常は当時でも南部アフリカと説明されていた、英語でも日本語でも。


ザンビア主要産業である銅鉱業、チンゴラ鉱山とのキャプションだがチンゴラは都市名でそのような鉱山はなく、オープンピットで最大なのはンチャンガ鉱山、なのでこれでしょう。


この鉱山専用のダンプトラック、ここは南アのアングロアメリカ社の鉱山


銅の精錬には莫大な電力を必要とする、この電力はチルンドゥの上流でザンベジ川をカリバダムで堰き止め、水力発電所で発電、その電力をカッパーベルト地域へ送電し銅精錬に使用している。


銅精錬所の映像、当時は一般には公開されていない、NHKはどうやって撮影許可をもらったのか、富田さんの力かもな。


カウンダ大統領が農業祭で鯉の養殖に関心を持ち、養殖予算が増額されたとのこと。1986年末には外貨不足で主食のミルミル値上げを契機にカッパーベルト地帯で暴動が発生したことを受け止めてのことだろう。


カッパーベルトのメケラ、養殖の兼古さん



ドイツ原産の鏡鯉、短期間で成長するとのこと、ティラピアは市場でよく見たが鏡鯉は終ぞ見ず。


産卵を促すためにホルモン剤を注射


キトウェの土木隊員の協力を得て養魚場を増設する(作ったな)


測量へいくという設定


水準測量だが、はて?



新設した養魚場


産卵・稚魚育成場


日本からの資機材が供与されている、スタッフに稚魚育成を指導中



サウスルアングワ・ナショナルパーク、日本の国立公園とは趣を異にする。このキリンが、このNPだけに生息するソニークラフトジラフィなのかの説明はなかった。



行政機関的にはどこに属していたのか、野生動物保護局というのがあった記憶だが。


カバ、炭疽病で死んだと思われその確認のために採血をする西川さん。遠くで仲間のカバが観ている。


泥にはまった象、人力では限界。


仕分けで処分された広尾訓練所、昭和61年竣工、数年前に聖心女子大へ売却され、建物はそのままで使用されている。


派遣前の壮行会


テーマが、きっと日本青年の活動だったのだろう、それ故、個々を切り取っている、これが全体としてストーリーを形成しているとなおよい。

サウスルアングワのナショナルパークレンジャーと鏡鯉の養殖がよくまとまっていた印象、家畜も重要な産業なので獣医師の扱いを。当時、ザンビア大学獣医学部を無償で建て、その後に北海道大学から教員を派遣、協力隊員が助手として働いていいた構図はNHK的には、日本青年の活動を超えて立派に映り過ぎたのだろう。