Tuesday, 30 May 2023

二系統の飯尾氏

原宿・表参道周辺であ旧穏田村の旧家である飯尾氏は、現在の浜松、引間城(浜松城)城主であった、飯尾豊前守(連龍)の次男、飯尾弥太夫(正宅)の子孫であると自称、天正年間1572-92年に移住して入植し、同地を飯尾氏が源氏である旨をもって源氏山と名付け、三代将軍の徳川家光に言上した。


「どうする家康」、浜松城は元引間城、前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、永正11年(1514年)、今川氏親から曳馬城を与えられた飯尾氏は正式に今川氏の家臣に、飯尾乗連は今川氏に引き続き仕えて桶狭間の戦いにも参加したが、今川義元が戦死し今川氏の衰退が始まり、飯尾氏の当主も乗連から子の連竜へと代わった。


今川氏の衰退後、城主飯尾連竜が今川氏真への反旗の疑惑をもたれ、永禄8(1565)に今川軍に攻囲され今川からの和議勧告を受諾、連竜は今川氏再属のため駿府への大赦御礼に出向いたが、和議は謀略で連竜は殺害された。曳馬城は家老の江間氏に守られるも城内は徳川派と武田派に分裂して内紛、その後、家康に攻略された。


徳川家康は、攻略後の元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。一説では連竜の未亡人、お田鶴の方を中心とした飯尾氏の残党によって守られていたが、家康が永禄11年(1568年)12月にお田鶴の方に、城を渡せば妻子共々面倒を見ると降伏を促したが拒否し続けたため、家康が兵を使って攻め込んだ。


飯尾氏(呼び方は様々、いいのおし、いのおし、いいおし)は、日本の氏族で以下の二系統がある。

1)遠江飯尾氏。三善為康の末裔

2)織田氏支族の飯尾氏

 

遠江飯尾氏は浜松曳馬(引間)城最後の城主である飯尾豊前守正純(連龍)、どうする家康にも登場した。

 

遠江飯尾氏は渡来人・三善氏の後裔で室町幕府の奉行衆の家柄、元は百済の速古大王の末裔で錦部首、後に錦部連を名乗った。延暦年間の桓武天皇後宮に、錦部姉継・同弟姉という女官がいた。同24年(805年)頃にその一族が三善宿禰を授けられた。


織田氏支族の飯尾氏は、織田氏の一族清洲の守護代織田大和守家の織田敏宗or敏定の子が尾張の土豪飯尾氏の養子となり、飯尾定宗と名乗ったことに始まる。定宗は織田信長に仕え、桶狭間の戦いで討ち死。定宗の跡を継いだ尚清(信宗)は赤母衣衆となり、本能寺の変後、織田信雄、さらに豊臣秀吉に仕えた。


母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ、矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、旗指物の一種ともなった。織田軍には馬廻から選抜された信長直属の使番である黒母衣衆と赤母衣衆があり、それぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせた。

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