Tuesday 1 November 2022

リヒャルト・ゾルゲ

 リヒャルト・ゾルゲはソ連邦のスパイで1944年11月7日(ロシア10月革命の日)、国防保安法、治安維持法違反で起訴され死刑判決を受け巣鴨拘置所で処刑された。雑司ヶ谷霊園の共同墓地に埋葬されたが内縁の妻石井花子が見つけ出し、自らの資金で1950年に多摩霊園に墓地を建てた。

ゾルゲはドイツ国籍、1933年、上海での活動の後に日本へ、ジャーナリストの旅券、後にドイツ大使館の信頼を得てナチス党員となり大使館付きとなり対ソ政策、日独関係、対中政策の調査を独ソ開戦の諜報活動を日本の共産主義支持者と連携して行ない、日本がソ連と開戦する兆候なしという情報を提供、

ゾルゲは日本の関心は南方にありと見ていた、そしてドイツの対ソ開戦は1941年6月と伝えていた。他のスパイの情報や英国の通報も独ソ開戦を補強していたがスターリンはこれらを無視。背景は諜報機関の情報自体への不信、英国による独ソ離間策疑念、独露混血であるゾルゲに対する二重スパイ疑惑がある。

ゾルゲは日本は南進が主眼であるとする尾崎秀実の分析を採用、1941年7月にモスクワへ打電、この情報をもとにソ連邦赤軍はシベリアの部隊の一部を対独開戦に向けて欧州側へ移動させた。ドイツが1941年6月22日に対ソ開戦、10月のモスクワ戦でドイツ軍を押し戻すことに成功、本国が諜報活動へ謝意打電

1941年5月に赴任した駐日ドイツ大使館付き武官のマイジンガーはゾルゲを監視する立場にあったがナチス党員であることから信頼を築いており、特高に信頼できる人物であり内偵を止めるよう申し入れている。警視庁外事課と特高警察は共産主義者の内偵を進めていたがゾルゲの怪しい点を確認できなかった。

特高は米国共産党員や外国人特派員を監視しており、その関係で1941年9月にゾルゲの諜報団が逮捕され、逮捕者の供述に基づいて順次ゾルゲや尾崎等、外国人、日本人が逮捕された。ゾルゲは尾崎等と共に死刑判決を受け他は懲役刑だった。1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所で刑が執行された。
 
日本はソ連邦へゾルゲと日本人将官との捕虜交換を重ねて申し入れたが、ソ連邦は日ソ中立条約を締結しており関係悪化を恐れたこと、ゾルゲの上司が粛正で処刑されていたこと、ゾルゲを独ソ二重スパイ嫌疑をかけていたこと等からゾルゲの存在は無視された。ゾルゲ事件で逮捕起訴されたのは20名だった。
 
ゾルゲの処刑後、巣鴨拘置所に近い雑司ヶ谷霊園の共同墓地に埋葬された。それを知った石井花子により、1949年に発掘、火葬され翌年の1950年11月7日に多摩霊園へ埋葬された。当時は未だ土葬だったのか、雑司ヶ谷霊園でも。
 
1961年、映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』が日仏合作で作成され、スターリン批判を行ったフルシチョフの判断でモスクワで上映され、再評価された。フルシチョフは情報総局へゾルゲ文書等の調査を指示、1964年9月5日、ソ連共産党機関紙プラウダに初めてゾルゲの記事が掲載される。  

1964年11月5日、諜報任務に従事したゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号が贈られた。ゾルゲの生まれたバクーにゾルゲの銅像建立など顕彰が進展。以降、ゾルゲは「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として尊敬され、ソ連邦の駐日大使が赴任した際にはゾルゲの墓に参るのが慣行となった。

ゾルゲを題材にした映画が制作されている。『スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜』 は1961年6月21日公開の日仏合作映画。フランス語の題名は「Quiêtes-vous、Monsieur Sorge?」、なぜ日仏と、原案が岸惠子だからか。2003年にも制作されている、タイトルは同じでより長時間の映画が。

 

 

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