明治40年(1907年)、当時の東京市郊外、荏原郡目黒村下目黒(現在の目黒区下目黒4-6丁目辺り)に目黒競馬場が開設され、昭和8年(1933年)春に閉鎖され府中の東京競馬場へ移転するまでの26年間にわたり下目黒に競馬場があった。閉鎖される前年の昭和7年(1932年)4月24日には第一回日本ダービー(東京優駿大競争)がで目黒競馬場開催されている。
Youtubeに「第一回日本ダービー(東京優駿競争)」の動画があった、これは驚き。
写真:目黒競馬場-第1回日本ダービー優勝馬ワカタカ
東京競馬場で開催される「目黒記念」はこの目黒競馬場の名を後世に残すために1932年に創設されたもので、以来現在まで続く伝統のレースとなっている。
目黒競馬場は1907年(明治40年)12月、日本競馬会により東京府荏原郡下目黒村(現在の東京都目黒区下目黒)に設立されている。
1910年、東京近郊の日本競馬会、東京競馬会、川崎競馬倶楽部、東京ジョッケークラブの4つの競馬倶楽部が合併したのに伴い主催者が東京競馬倶楽部に移行した。
同年春季からはそれまで池上競馬場で施行されていた帝室御賞典の開催が始まり、翌1911年からは当時の選手権競走ともいえる優勝内国産馬連合競走が創設された。
目黒競馬場は、敷地が約6万坪、その大部分が借地であった。近隣の宅地化の進展による地価高騰と借地料の値上げ要求など拡張が限界となっていたことや、競走馬の飲料用水確保が困難さから存続が難しい状態にあり、更に議員から目黒町の発展を妨げると非難をされるようになど、目黒競馬場は存続自体が難しい状況に追い込まれていった。
諸問題が山積する中、競馬場側は移転を行うしか解決するための方法は無いと決断、
1932年(昭和7年)には近代競馬の基幹競走となる記念すべき第一回日本ダービー(東京優駿大競争)が開催されたが、翌1933年(昭和8年)春季開催を最後に目黒競馬場での開催は終了し、競馬場が廃止され、同年秋に完成していた北多摩郡府中町(現・府中市)の東京競馬場へその役割が移転した。
東京競馬場で開催される「目黒記念」は目黒競馬場の名を後世に残すために1932年に創設されたもので、以来現在まで続く伝統のレースとなっている。
競馬場が移転した後、この地がどうなったのかは明確な説明が見つからないので定かではないが、当時の航空写真などから市街化、つまり住宅地として都市化が進展したことが窺える。3年後の昭和11年、既に住宅が建ち始めているが競馬場の敷地形状を色濃く残しているのが航空写真より読み取れる。
写真:目黒競馬場昭和11年(1936年)
太平洋戦争後は、 都心からの転居が多く、また、企業の社宅用地として取得されたことが現在の地図から類推すると事が出来る。
用途地域指定が第1種低層住宅地域のため、基本的に高さ10mまでの住宅しか建設できないことから競馬場跡地は住宅地となっている。政府機関が所有していた土地が2000年代中頃、小泉政権の時代に国有地は民間へ払い下げられ、大企業所有地(社宅)はマンションや戸建て住宅として開発された。その他、社宅は現在もこの跡地に多い。
【最近開発された競馬場跡地の跡地】
国立教育政策研究所→マンション(住友不動産、175戸)
農林中央金庫社宅→戸建て住宅(三井不動産、49戸)
日本興業銀行社宅 →マンション(三菱地所、99戸)
写真:1999年の航空写真google
【競馬場跡地はコースの名残】
目黒競馬場ー昭和6年発行2万5千分の1
【目黒競馬場跡の記念碑】
東急バス、都営バスの東98系統に「元競馬場前」という名称の停留所がある。バス停から20mほど離れたところ、目黒通りの元競馬場という交差点に当時の大種牡馬トウルヌソルの銅像(La cafe Manieの前)がある。第1回日本ダービー優勝馬ではない。
この銅像は、第50回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会と大鳥前元競馬場通り商店街振興組合の協力で1983年11月に建てられたものである。
La cafe Manie
http://www.le-cafemamie.com/
【競馬場の桜】
【元競馬場前、元競馬場通り、元競馬・・・】
「元競馬南泉公園」、農林中央金庫社宅跡地で進んでいる戸建て住宅開発地内にある公園。
目黒通り沿いの都バスのバス停「元競馬場前」、東98、渋72
目黒通り沿い、東急バスのバス停「元競馬場前」
下目黒5丁目のバス通りの通り「元競馬場通り」
【参考資料】
目黒競馬場(目黒区役所)