植田和男日銀総裁がMIT経済学部で博士課程に留学していたときの指導教官スタンレー・フィッシャーとザンビアについて視野に入ったのでメモを。
植田総裁がMIT大学院博士課程へ留学した時(1976−1980年)の指導教官は、スタンレー・フィッシャー(Stanley Fischer)教授、wikiにはフィッシャーは、北ローデシア、現在のザンビア、のマザブカで1943年生まれとある、フィッシャーはユダヤ系でありマザブカにコミュニティが存在していたのは初耳だったが、植民地というのはそういう場所なのかもしれない、南米大陸の移民のように。
Mazabukaマザブカは現在のザンビアの首都ルサカから南西へ135kmに位置する、カフエ川が近くを流れる、人口約7万人の南部州の州都でもある。私の記憶では、1980年代だが、牧畜が盛んなエリアという情報だったが、現在はサトウキビ栽培が盛んでザンビアシュガー会社がここで操業している。フィッシャー家が住んでいた1950年代は情報がないが、1990年で人口が約25000人なのでもっと少ないことだろう。
マザブカの語源は南部州の言語であるトンガ語で「川を渡った」という意味とのこと。カフエ川を渡ったという意味なのだろう。
2007年、マザブカのMunali Nickel Mineで採掘が開始され、Niを約4000トン/年(2021)産出する。
フィッシャー家は1956年ごろに南ローデシアSuthern Rodesia(現在のジンバブエ)へ転居、スタンレーが13歳のときでした。そして、奨学金を得て1962年から1966年にLSE:London School of Economics and Polytical Scienceで修士課程まで学び、MITの博士課程へ進学している。
スタンレーがMITで教授職に就いたのは1977-1988、植田総裁が入学したのが1976年である。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-02-11/RPWEDET0AFB701
フィシャー家がマザブカに住んでいた頃は、北ローデシアNorthern Rodesia (1911-1964)で、英国領ローデシア・ニアサランド連邦Federation of Rhodesia and Nyasaland(1953-1964)を構成していた。ザンビアは東京オリンピック1964開催中の10月24日に独立した。よって入場行進は北ローデシアで閉会式の行進はザンビア共和国であった。
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