Saturday, 3 April 2021

名古屋製陶所のカップ&ソーサ

名古屋製陶所と刻印された古そうなカップ&ソーサが日本陶器と並んで食器棚の上にある。ほとんど認識していなかったが日本陶器とは別会社のようだというのを最近気が付いた。さて、この名古屋製陶所、どういう会社なのか?端的言えば鳴海製陶の前身だとのこと。ボーンチャイナを含む高級洋食器メーカーでありノリタケに次いで国内の洋食器業界では第2位の売上高を誇る。

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1911年、明治44年に日本陶器(現ノリタケ)の技師長だった飛鳥井孝太郎が名古屋の陶磁器貿易商だった寺沢留四郎と共に帝国製陶所を設立した。


帝国製陶所は日本陶器と競合するほど成長したが台風被害で経営困難となり名古屋財界の資本が入り合資会社名古屋製陶所となった。


1938年、昭和13年、現在の名古屋市緑区鳴海町の土地を取得、トンネル窯の工場を建設した。


1943年、昭和18年、太平洋戦争の影響を受け物資統制下、軍需省の斡旋で住友金属工業が鳴海工場を買収、名古屋軽合金製造所・鳴海支所として航空機の空冷気筒を生産した。


1946年、昭和21年、洋食器製造会社としての復活を目指したが財閥行為制限令が布告された影響で持株方式で子会社を設立できなくなったため、扶桑金属工業(現・日本製鉄)鳴海製陶所として発足した。


1947年2月に販売会社である有限会社鳴陶商会を設立し北米向けにディナーセットの輸出を開始した。しかし、


1949年4月25日の単一為替レート実施により、1ドル=550円から1ドル=360円へと急激な円高となり輸出額が65%減少、元々絵付けが高コスト体質であったこともあり人員整理を行い、有限会社鳴陶商会を解散し扶桑金属工業に吸収した。


1950年、昭和25年12月1日、前年の出資法の改正により、扶桑金属工業は資本金3,000万円で鳴海製陶株式会社を100%子会社として設立し、翌年1月1日に鳴海製陶所事業の全て継承し正式に独立した。


生産性向上のためジュラルミンによる製版を用いた印刷・転写法の開発、重油焼成のトンネル窯の建設、コンベヤーラインの導入などを行った。また、朝鮮戦争勃発により在日米軍向け販売が増加した。


他方で1949年から翌年にかけて陶磁器市場が低迷し輸出が減少継続した。1963年、国内メーカーとの低価格競争を避けるためボーンチャイナ製品の製造販売を決定。


1964年、日本開発銀行からボーンチャイナ製造用の設備建設のための融資を受け、新たな生産設備の導入などによって事業化ラインの月産1,000セットを達成し、1968年にはニューヨークのティファニーに製品を納入している。その後、ニクソン・ショックにより価格競争力が低下、1972年には陶磁器の生産を全面的にボーンチャイナに切り替えた。


ホテル向け高級食器の出荷も始まり、1975年にホテルプラザ、1979年には京王プラザホテル、アークホテル大阪に納入されるなどして売上が伸びた。これを受けて軽量化・強度向上などの改良を行い、ノリタケなどと高級業務用食器での競合を


1958年から通産省の技術研究所の協力を得て電気部品やプリント基板等の工業用セラミックの製造を開始、その後は、ファインセラミックス製品も手がけ、ビデオや携帯電話向け電子部品の製造


1985年、プラザ合意により円高が進み電子セラミックス部門の業績が悪化、1991年に電子セラミックス部門が住友金属工業へ譲渡された。


2006年、MBOが実施され投資ファンドが株式の90%を取得。


2015年、石塚硝子が住友金属工業保有の10%を含み全株式を取得し完全子会社へ移行した。


現在の鳴海製陶

http://www.narumi.co.jp/

(wikiなどをベースに編集)


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