東
サマール州ギワンの太平洋側、滑走路の先の浜(Dumpao
Beach)に元連合艦隊の鎮魂碑がある。この地を選んだのはレイテ沖海戦がこの沖合で戦われたことからだろう、碑にある駆逐艦岩波は昭和19年
(1944年)12月4日、米国潜水艦フラッシャーの魚雷攻撃を受けて沈没、乗組員の90名が戦死した。
碑文
鎮魂
In memory of the men,
from the nations,
who, in life, fought a war
and now, in death.
Are together in peace.
Never again.
元連合艦隊
第二水雷戦隊 駆逐艦岸波
1991年9月
奈古屋嘉茂 大平洋金属株式会社 社長
【駆逐艦岸波 撃沈の様子】
11月26日、岸波は敷設艇由利島、第17号海防艦とともに特設給油船八紘丸(日本油槽船、10,022トン)を護衛して昭南を出港し、12月1日にマニラに入港した。燃料の荷揚げを済ませた後、往路と同じ顔ぶれで12月3日10時にマニラを出港して昭南に向かった。
し かし、翌12月4日10時30分、北緯13度12分 東経116度39分[11]のパラワン島北西海域にさしかかったところでアメリカ潜水艦フラッシャー (USS Flasher, SS-249) の攻撃を受ける。フラッシャーは八紘丸船団の存在を、近在の僚艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) からの報告により知り、船団の前方に出て待ち伏せを行っていた所であった。
フラッシャーは朝潮型駆逐艦と目された[13]岸波に対して魚雷を4本発射し、2本を命中させた。岸波は航行不能に陥り[14]、「朝潮型駆逐艦」を撃沈と推定したフラッシャーは、艦尾発射管から八紘丸に向けて魚雷を4本発射。2本が命中して八紘丸も航行不能になった。
やがて爆雷攻撃が始まったので、フラッシャーは攻撃を避けるため深深度に潜航して魚雷の装てんを行い[16]、約1時間後に潜望鏡深度に戻って三度目の攻撃の態勢に入った。
そ の間、岸波は由利島に曳航されようとしていた。14時2分、フラッシャーは大雨の中を岸波と八紘丸に向けて魚雷を4本発射。岸波は魚雷が2本命中して沈 没。乗員のうち第三十一駆逐隊司令、駆逐艦長三船敏郎中佐以下90名が戦死し、残る150名は由利島に救助された。この後、フラッシャーは辛うじて浮いて いた八紘丸に止めの魚雷を命中させて撃沈した。 (wikiより)
碑文
鎮魂
In memory of the men,
from the nations,
who, in life, fought a war
and now, in death.
Are together in peace.
Never again.
元連合艦隊
第二水雷戦隊 駆逐艦岸波
1991年9月
奈古屋嘉茂 大平洋金属株式会社 社長
【駆逐艦岸波 撃沈の様子】
11月26日、岸波は敷設艇由利島、第17号海防艦とともに特設給油船八紘丸(日本油槽船、10,022トン)を護衛して昭南を出港し、12月1日にマニラに入港した。燃料の荷揚げを済ませた後、往路と同じ顔ぶれで12月3日10時にマニラを出港して昭南に向かった。
し かし、翌12月4日10時30分、北緯13度12分 東経116度39分[11]のパラワン島北西海域にさしかかったところでアメリカ潜水艦フラッシャー (USS Flasher, SS-249) の攻撃を受ける。フラッシャーは八紘丸船団の存在を、近在の僚艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) からの報告により知り、船団の前方に出て待ち伏せを行っていた所であった。
フラッシャーは朝潮型駆逐艦と目された[13]岸波に対して魚雷を4本発射し、2本を命中させた。岸波は航行不能に陥り[14]、「朝潮型駆逐艦」を撃沈と推定したフラッシャーは、艦尾発射管から八紘丸に向けて魚雷を4本発射。2本が命中して八紘丸も航行不能になった。
やがて爆雷攻撃が始まったので、フラッシャーは攻撃を避けるため深深度に潜航して魚雷の装てんを行い[16]、約1時間後に潜望鏡深度に戻って三度目の攻撃の態勢に入った。
そ の間、岸波は由利島に曳航されようとしていた。14時2分、フラッシャーは大雨の中を岸波と八紘丸に向けて魚雷を4本発射。岸波は魚雷が2本命中して沈 没。乗員のうち第三十一駆逐隊司令、駆逐艦長三船敏郎中佐以下90名が戦死し、残る150名は由利島に救助された。この後、フラッシャーは辛うじて浮いて いた八紘丸に止めの魚雷を命中させて撃沈した。 (wikiより)
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