1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉がフィリピン・ルバング島から指揮官に任を解かれ、実に終戦後29年を経て帰還した。この時の小野田元少尉がフィリピン軍司令官に投降し、直立不動で敬礼し軍刀を差し出す映像は凛として記憶に焼きついている。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030130_00000
残留中に略奪やフィリピン軍、警察、住民を殺害したとして訴追される状況であったが、当時のマルコス大統領が政治問題として処理、投降翌日のマラカニアン宮殿を訪れマルコス大統領と面会、特赦が言い渡された。後に日本政府はフィリピン世論に配慮して戦後賠償へ終了していたが、見舞金という形で3億円を拠出している。
小野田元少尉は終戦後も4名で行動を共にしていたが、1人投降、2人戦死した。1951年に赤津勇一元一等兵が投降、帰還したことで残留兵の存在が認識されたが、フィリピン内政の不安定さから捜索隊を派遣できず。1954年、フィリピン部隊と戦闘、島田庄一元伍長の遺体が確認される。1972年、フィリピン警察官と銃撃となり小塚金七元一等兵が射殺された。
日本政府は捜索隊を派遣するも小野田元少尉を発見出来ずだったが、この報道に触発された冒険家鈴木紀夫が1974年に単独でルバング島へ乗り込み小野田元少尉との接触に成功、彼の説得により、投降の決意を固めた。小野田元少尉に対して元上官により現地で任務命令解除命令が発令され、投降した。この時ことを鈴木 紀夫は「大放浪―小野田少尉発見の旅 (朝日文庫)」(1995年)にまとめている。
帰国の際に「天皇陛下万歳」と表現したことや、フィリピン軍との銃撃戦など軍人や住民が死傷したことが明らかになり、また、本当に日本の敗戦を知らなかったのか、などマスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判も受けた。しかし、国家のために従軍し取り残され帰還出来なかったのだから先ずは任務ご苦労様であろう、失礼千万なマスコミだし政府のがグリップを効かせられなかったのは残念、帰還時に出迎えた母親の言葉「よう生きて帰ってくれた、」は印象的であった。
小野田自身、手記である「わがルバング島の30年戦争」(1974年)を帰国後に著している、自分を美化し過ぎとの評もある。
マニラのニノイ・アキノ国際空港の横のフィリピン空軍博物館に小野田の空軍将軍宛て手紙、ルバング島での火器や生活道具などが展示されている。
2014年の小野田の死去に際し、ニューヨーク・タイムズは「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」と報道した。