Saturday, 25 March 2023

プノンペンのスカイライン

 ボンケンコンBoeung Keng Kang:BKKのビルの屋上よりプノンペン市街地を望む、プノンペンの王宮前でメコン川とトンレサップ川が合流する、1990年代後半のバンコク中心部の様相。中心部では高層ビル建築が旺盛で、75階建ビルが建築中。






昨年11月のASEANサミットの会場が3枚目左上の白いホテル、両河川の合流地点に位置するSokha。Boeung Keng Kangはプノンペン14区(Khan)の一つ、プノンペン特別市中心部5区の一つ、元々は富裕層向けの良好な住宅地であり、1991年のパリ和平協定以降、UNTAC(総員2.15万人)が設立され国連、政府関係者やNGOなどの外国人が入国し始めると、老舗ホテルがあったこの地区に多くの外国人が逗留し、カフェやレストランが増えていった。

敷地の広い住宅地が数十階建のアパートに所々変わりつつありその一つがこの建物だろう。バンコクと似たスカイラインになりつつあるが、交通渋滞の深刻さは雲泥の差がある。道路網が概ねグリッドで構成されており縦が奇数、横が偶数が振られている。

日露漁業(サケ・マス)交渉日本海域2023妥結

 3/20-24に「日ロ漁業合同委員会第39回会議」が日本とロシア間で開催され、令和5年(2023年)の日本200海里水域における我が国漁船によるロシア系さけ・ますの操業条件等について妥結し、4/10解禁日出漁の見込み。

https://www.jfa.maff.go.jp/j/press/kokusai/230324_12.html

協定の経緯は以下のとおり、

1985年(昭和60)にソ連と日本との間で締結された協定。1976年および1977年にソ連および日本がそれぞれ200海里漁業水域を設定したことにより、1956年の日ソ漁業条約は1977年に廃棄された。

その後、北西太平洋の200海里以遠水域におけるわが国のサケ・マス漁業は、78年に締結されたいわゆる旧日ソ漁業協力協定およびこの協定に基づいて毎年締結されたいわゆるサケ・マス議定書に従って行われてきた。

1982年の国連海洋法条約の採択およびその後の日ソによる同条約への署名、1984年のソ連の経済水域設定を契機として、1985年5月に「漁業の分野における協力に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定」(日ソ漁業協力協定)が締結された。

この協定の内容は、サケ・マスの取扱いに関する規定と一般的な漁業の分野の協力に関する規定に大別される。サケ・マスの取扱いに関する第2条は、国連海洋法条約の溯河性魚種に関する規定(第66条)を考慮したものとなっており、母川国の第一義的利益および責任、遡河性魚種の保存の確保、漁獲の条件、規制の実施、裁判権などを定める。

漁業の分野の協力に関しては、科学調査の協力、漁業の技術等についての協力、生物資源の保存・管理についての協力、両国の団体・企業間の協力についての協議などを定める。また、この協定は、この協定の目的を達成するため、日ソ漁業合同委員会を設置することとした。

1991年(平成3)12月以降は日本とロシア連邦との間で引き続き効力を有している。

サケ・マスの取扱いに関する第2条は、国連海洋法条約の溯河(さくか)性魚種に関する規定(第66条)を考慮したもの。


ブルガリアの薔薇の谷と兵器工場

沈黙の好景気、ブルガリア中部のカザンラック、バラの谷(香水原料としてシャネルが買付けている)としてその名が知れている、ここにブルガリアで最も歴史のある兵器産業Arsenal社の工場があり7000人が働いている。昨年2022年の売上が$4.3 bil.に達し前年比3倍、創業以来最高の売上を記録したが、その製品はウクライナ向け弾薬であり、実に1/3がブルガリアから供給された。その他、ブルガリア最大の兵器産業である国営VMZ(Sopot)はウクライナ向けに155mm砲を製造しているし、Dunarit, Terem, Emko他の軍事産業がウクライナ向けに輸出している。

冷戦時代、ブルガリアはソ連邦ブロック圏のワルシャワ条約機構国、ソ連邦への兵器供給基地であった。ソ連邦崩壊後は産業が極度に衰退し、1996年にはハイパーインフレを経験し深刻な経済危機を経験したが、軍事産業は細々と存続していた。2010年代から中東などの紛争地域でAR-M1というブルガリアのカラシニコフ(ハイコストパフォーマンス)の需要が高まり輸出が増加した。現在、Arsenal社では労働者不足で好条件を提示して雇用を確保している。ブルガリアではそれまで国外へ労働者が流出していたが新たな雇用機会の創出で戻ってきているとも。

EU最貧国の一つであるブルガリアでは首都ソフィア以外では失業率が非常に高く、Arsenal社はブルガリア経済に貢献していることになるが、ブルガリアは歴史的文化的にはオスマン帝国から解放したロシアに近く、ウクライナへの兵器供給はEUとNATOの傘の下ではあるものの複雑な国民感情となっている。

2022年12月の欧州議会でクロアチアは2023年1月よりシェンゲン協定に加盟が承認されたが、ブルガリアとルーマニアは見送られた経緯があり、その点からも国内での雇用機会増大は沈黙の好景気であろうが、これが薔薇などによる好景気であったなら沈黙しないでもよかったであろう。

元記事はAFP。

https://sg.news.yahoo.com/guns-roses-bulgaria-arms-trade-032700960.html

懐かしのルサカ空港

 ルサカ空港ロビー、ザンビアの主要産業である銅鉱業の銅鉱石とインゴットが展示されている、まるで博物館のように。1988年8月と同じ。時間が止まったようだった。2016年3月、COMESA/JICA共催ジブチ回廊整備・貿易促進WSを終えて。

Lusaka Airport, now honorably the first president of Zambia has put on the title. The terminal has not been changed since I left Lusaka in August 1988.

ザンビアは冷戦の終焉とともに南ア化し物に溢れていましたが、中国の攻勢も目立ちました。このターミナル、1988年に帰国した時から変わりませんが、現在、新ターミナルを建設中、もちろん中国の融資と建設会社です。空港ロビーはザンビア産業のプレゼンテーションです。

2011年でしょう、ケネス・カウンダ初代大統領の名前を空港名に冠するようになりました。










Friday, 17 March 2023

Smart Cambodiaのバランス確認

Smart Cambodiaのバランス確認

Dial *123#, 

Select 1.Check your Smart account

and 

Select 2. Check your balance

Then the balance displays





https://www.smart.com.kh/


もっと簡単な確認方法はスマホアプリをインストールすれば良い。情報がないので順序が逆になってしまったが。

ソフィアのホテルヴィトーシャニューオータニ

 東側で日本人が関係したホテルにはブルガリア・ソフィアのHotel Vitosha New Otaniがある。21階建、442室。黒川紀章が設計、建設はブルガリアのTehnoeksportstroyと三菱のJV、黒川は設計に際してBulgarian National Revival style of Koprivshtitsa and Plovdivを参照している。プロブディフは古都でありコプリニシティッツァは農村、ブルガリア民俗、木造の出窓はオスマン帝国の影響なのかもしれない。

建設にあたって円借款が供与されている、これは当時の社会党衆議院議員であり東海大学創立者である松前重義が強く関係していたようだ。

(1)ソフィアホテル建設計画(48億3,200万円、1975年交換公文署名)

https://www.bg.emb-japan.go.jp/jp/oda/economical_collaboration/index.html

開業は19795月24日、1994年にはIntercontinentalに、1997年にはKempinski Hotel Zografski Sofia、2014に現在のHotel Marinela Sofiaになっている。

1988年と1989年にはWTAテニストーナメント会場となった。

1996/97年、ブルガリア国鉄業務でソフィアに出張、この旧ホテルヴィトーシャニューオータニ、Intercontinentalに宿泊していたが、途中で売却されKempinski Hotel Zografski Sofiaになった。その時、ブルガリア経済危機の最中でVISAを扱っていた農業銀行が破綻し、ホテルからクレジットカード支払いが停止しており、支払いは現金か銀行送金で支払うよう要請があった。





















Monday, 13 March 2023

再度、汁無し米粉麺(Banh Srong)へ、しかし正午前なのに既に閉店

 2023/3/12、汁無し米粉麺屋(Banh Srong)に行ったが既に閉店、正午前だったのに、表の扉が閉まっていなかったので閉めたばかり、11:30迄か?もっと早く出ようとと考えていたが鼻がぐずぐず、喉がイガイガ、なんとなく嫌な予感してゆっくりしていたら、ヌードルを逃した。

それで次の店へ行ったが麺は売り切れなのか、今日はこれだけと指定され、チャーハンにしたがメニューには麺類とご飯物もある。Kolap Angkor Restaurant、若い女性が何人も働いていて客の出入りも多く活気がある。欲を言うなら、野菜を乗せて欲しかったが、別注文かな。12,000KHR、$3也。


Sunday, 12 March 2023

1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉残留兵帰還

 1974年3月12日、小野田寛郎元陸軍少尉がフィリピン・ルバング島から指揮官に任を解かれ、実に終戦後29年を経て帰還した。この時の小野田元少尉がフィリピン軍司令官に投降し、直立不動で敬礼し軍刀を差し出す映像は凛として記憶に焼きついている。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030130_00000

残留中に略奪やフィリピン軍、警察、住民を殺害したとして訴追される状況であったが、当時のマルコス大統領が政治問題として処理、投降翌日のマラカニアン宮殿を訪れマルコス大統領と面会、特赦が言い渡された。後に日本政府はフィリピン世論に配慮して戦後賠償へ終了していたが、見舞金という形で3億円を拠出している。

小野田元少尉は終戦後も4名で行動を共にしていたが、1人投降、2人戦死した。1951年に赤津勇一元一等兵が投降、帰還したことで残留兵の存在が認識されたが、フィリピン内政の不安定さから捜索隊を派遣できず。1954年、フィリピン部隊と戦闘、島田庄一元伍長の遺体が確認される。1972年、フィリピン警察官と銃撃となり小塚金七元一等兵が射殺された。

日本政府は捜索隊を派遣するも小野田元少尉を発見出来ずだったが、この報道に触発された冒険家鈴木紀夫が1974年に単独でルバング島へ乗り込み小野田元少尉との接触に成功、彼の説得により、投降の決意を固めた。小野田元少尉に対して元上官により現地で任務命令解除命令が発令され、投降した。この時ことを鈴木 紀夫は「大放浪―小野田少尉発見の旅 (朝日文庫)」(1995年)にまとめている。

帰国の際に「天皇陛下万歳」と表現したことや、フィリピン軍との銃撃戦など軍人や住民が死傷したことが明らかになり、また、本当に日本の敗戦を知らなかったのか、などマスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判も受けた。しかし、国家のために従軍し取り残され帰還出来なかったのだから先ずは任務ご苦労様であろう、失礼千万なマスコミだし政府のがグリップを効かせられなかったのは残念、帰還時に出迎えた母親の言葉「よう生きて帰ってくれた、」は印象的であった。

小野田自身、手記である「わがルバング島の30年戦争」(1974年)を帰国後に著している、自分を美化し過ぎとの評もある。

マニラのニノイ・アキノ国際空港の横のフィリピン空軍博物館に小野田の空軍将軍宛て手紙、ルバング島での火器や生活道具などが展示されている。

2014年の小野田の死去に際し、ニューヨーク・タイムズは「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」と報道した。

東ドイツ時代に鹿島建設が建てたGrand Hotel Berlin

 東ドイツ時代に鹿島建設とサブコンのSiab(スウェーデン)が建設したGrand Hotel Berlin。現在はThe Westin Grand Berlin。

https://www.marriott.com/en-us/hotels/berwi-the-westin-grand-berlin/overview/



この土地には1873年に建てられたkaisergalerieというショッピングセンターがあったが1943年のベルリン空爆で崩壊、1957年に更地へ、その跡地に西側観光客の需要増に対応してベルリン建都750周年にあたる1987年にinterhotelがホテルを建設した。そして鹿島建設を指名した。

1987年8月12日

1987年8月1日オープン、400室。竣工当時、日経アーキテクチャーに掲載されたので記憶にある。1985年に東ベルリンに滞在した時には建設中だったのかもしれないが、フリードリッヒ通り沿いなので記憶に残りそうだが。

1990年のドイツ統一後、東ドイツの国有資産はTreuhandanstaltの管轄となり民営化された。 German Maritim Hotelsが運営することになりMaritim Grand Hotel Berlinと名称を変えた。その後、その他のDeutsche Interhotels資産とともに売却された、199771日にThe Westin Grand Berlinとなった。


2007年、ブラックストーングループがこのホテルを含む14Deutsche Interhotelsを買収、増改築・改装を行い、7階を増築して新たに41室を追加して20084月にオープン。2014年にこのホテルを含む10 Deutsche Interhotels Starwood Capital and Brookfield Asset Managementに売却した。

その記憶から2010年、パスポートの増補の際、ドイツ連邦の首都に復活したベルリンを選んでこのホテルに宿泊した。地下にプールがあり、東側の典型的な施設構成だと感じた。そして、1985年8月、YHからティアガルテンに沿ってしばらく歩いたら日章旗が旗めく古典様式建物が視野に、塀はなく夏草が生い茂っていた、そこが旧大日本帝国大使館だった、そして、現在の駐ドイツ日本大使館に引き継がれていて、そこでパスポートの増補を申請した。

Saturday, 11 March 2023

汁無し米粉麺(Banh Srong)

 プノンペンのヌードル、豚骨出汁ヌードルを食べたばかりなのに、汁無し米粉麺へ、パパイヤとモヤシをたっぷり入れてもらった。ふとハシゴはちと厳しいかとこの後、お持ち帰りにしてもらい夕飯がわりに先ほどいただいた。このブンに似た米粉麺、腰があり、さっぱりして美味しい。6,000KHR、1.5ドル、相場だろう。







プノンペンの国道1号線とPreah Monivong Blvd.

 国道1号線のPreah Monivong Blvd.とMinistry of Post and Telecomunication郵政省、右隣がPhnom Penh Capital Administration、市役所なのですがCapitalが付いているので都庁と訳されますが人口は215万人程度です。国道1号線の最初のPreahは仏という意味、道路名の頭に付いているのをよく見かける。背側が、写真がありませんが、Le Royal Phnom Penh、昨年11月のASEAN首脳会議の際にバイデン大統領の宿舎となった。郵政省も市役所も、Le Royalも多分、仏領インドシナ時代の建物です。

道路元標をスタッフに確認してもらったらWat Phnomだと言うが、国道1号線はフランス大使館前が起点になっていて、メコン川沿いに東のベトナム国境へ、そして、旧サイゴンのホーチミンシティへ至る。アジアハイウェイAH1でもあり、日本橋に繋がっている。





Thursday, 9 March 2023

ベランダ菜園(唐辛子)の水管理

 長期間留守にするときのベランダ菜園の水管理、ドリップ式を試したが水が詰まって出なかったようだ。よって、枯れてしまった、残念の極み、この唐辛子、3年目だったのに。その後、水をやっていたら根本から幹から芽が出てきたので、その上で切った。その後、どうなるのか、季節が春になってきたのでそのまま芽吹いて欲しいところだが。




出張前

3年の様子

https://eastriver229.blogspot.com/2023/03/blog-post_26.html