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Monday, 1 November 2021

船頭平閘門と木曽三川分流工事

子供の頃から行ってみようと考えていた旧立田村福原地区は、木曽川と長良川の中州、愛知県と三重県の県境に位置する。小中学校は福原分校というのがあった、福原地区のすぐ南側は長島町で三重県になる。つまり福原地区は中州なので立田大橋が出来るまでは渡し舟か、国道1号線の木曽川と長良川の橋と途中からが仕切り提のある三重県長島町から北上するアクセスしかなかった。2021年7月、立田大橋を渡って木曽川と長良川の背割り提から福原地区へやっと足を向けることができた。

 



その福原地区に船頭平閘門という木曽川と長良川の間をつなぐ閘門(式運河)がある。運河の定義では内陸閘門という。私的には閘門式運河のように見えた、まさしく、パナマ運河と同じ、閘門で閉じられた水路に船を進め、水を入れたり、抜いたりして、その先の河川の水位に合わせて船を航行する。プチパナマ運河のようだ。

 

なぜ、閘門がここにあるかというと、若干、木曽三川の歴史をさかk登らなければならない。木曽三川の下流域は、木曽川、長良川、揖斐川の三川が合流しており、逆流などして洪水など水害が絶えなかった。江戸時代にも分流工事に薩摩藩が幕府の命を受けて取り組んだ宝暦の治水があるが、明治期になり、オランダから技術者を招聘し、ヨハニス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により治水工事、つまり、木曽三川分流工事が行われた。

その分流工事により、それまでは木曽川から長良川の対岸まで航行できたが背割り提が築かれたことにより、河口まで下り迂回しないと木曽川から長良川へ、その逆も、航行できなくなり、水運に支障をきたすことが見込まれた。

そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後、1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定、1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。当時は、両河川の水面の高低差が約1メートルあり、閘門によりその調整を行うことにした。 

現在、長良川側の水位が木曽川の水位よりも約1.5メートル高い、それは長良川河口堰建設の影響とのこと。また、木曽川の水位が低いのは東海大橋上流に建設された馬飼頭首工の影響とのこと。

閘門の開閉は手動式であったが、1994年(平成6年)に電動へ改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には重要文化財に指定されている。

また、1987年(昭和62年)10月に開設された国営木曽三川公園中流部の一翼を担う船頭平河川公園として周辺一帯が整備され、木曽三川の治水工事に関する情報公開の拠点として木曽川文庫が設置された。公園内には、改修工事前の水門扉の展示や、明治の三川分流工事にを指揮したオランダ人土木技術者ヨハニス・デ・レーケ像がある。 

 

木曽川文庫は、船頭平閘門管理所の2階にあり、木曽川治水百周年事業の一環として1987年(昭和62年)10月8日に開設された。施設の床面積は約170平米、書籍や資料を所蔵する書架コーナーのほか、閲覧コーナーや資料の展示コーナーを備え、所蔵点数は約4,500点で、明治改修までの資料を中心としている。建物のデザインが、なぜこんな中州にヨーロッパと朝というか、パリっぽいデザインで驚いた。周囲の桜は立派で桜の季節に来てみたいと思わせる桜の大木が多く植えられている。



Sunday, 31 October 2021

東海道三里の渡し(津島湊/佐屋湊-桑名)

津島から川船が出ていたということは子供の頃に天王川川祭りなどから断片的に認識していたが、東海道の七里(宮)の渡しの代替ルートであり、「三里の渡し(津島湊⁻佐屋湊-桑名)」が運航していたことを知ったのはそれから数十年も経ってからだった。これまで振り返る余裕がなかったが、実家へ帰ったときに地元の地名を改めて見直すと日本の歴史の一片を形成していたのかもしれないと思い、全体像を把握すべく少し掘り下げてみた。

津島は古くから津島神社を中心にこの地方の経済文化の中心地であり、津島湊として平安末期には、木曽川の支流である天王川、佐屋川を経て桑名へ連絡されていた。しかし、木曽川(木曽三川の下流部に位置し蛇行、逆流を繰り返していた)のからの土砂流入、堆積により両河川とも水深が浅くなり川船の河川航行が困難となり、寛文6年(1666年)、尾張藩は津島湊を廃止し、延宝7年(1679年)には、津島の本陣を閉鎖した。その結果、渡し船は津島湊から天王川・佐屋川下流の佐屋湊から桑名へとなった。 

津島湊石碑、天王川公園

津島湊跡 

三里の渡しは、佐屋湊の面する佐屋川から木曽川へ入り、鰻江(うなぎえ)川を通って桑名で東海道に合流する3里(12km)の航路であった。宮宿と桑名宿の間の距離は陸路とあわせて計9里となり七里の渡しを使用する場合に比べ遠回りではあったが、河川を通るため海上に出る七里の渡しに比べれば難破の危険や船酔いを避けることができた。また、水上の距離も短かったことから代替ルートとして盛んに利用された。佐屋川(現在は佐屋川用水路になっている)は木曽川下流の支流である。

神守から岩塚・万場で庄内川を渡るが、この辺は認識していないがその先の神守宿は現在の津島市であり、この辺からかつての生活圏に入ってくる。


佐屋驛渡口,『尾張名所図会』巻7海東・海西郡
 
佐屋は陸上交通と海上交通の結節点であり、元和年間(1615年から1624年)に佐屋奉行所が設置され、寛永年間(1624年から1645年)に佐屋宿が設けられた。記録によると徳川家康が元和元年(1615年)に、徳川秀忠が元和5年(1619年)に上洛の際に通過している。

佐屋宿は、徳川家光が寛永3年、1626年に上洛の折、宿泊施設の御殿を佐屋宿に建てたことがきっかけとなり宿場となった。宿駅設置前にも渡船場であり、寛永11年(1634年)、佐屋宿と万場宿が設置され、元禄14年(1701年)『尾張国絵図』に、桑名と佐屋の水路は「佐屋ヨリ伊勢国桑名への船路三里」と説明されている。  

佐屋街道は1634年(寛永11年)に開設され、1666年(寛文6年)に東海道の脇往還として幕府に公認された。佐屋宿は開設当時からの宿場であり、外佐屋村内佐屋地区、依田村、須賀村の3村が担っていた。天保年間の規模は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠31軒、問屋場1箇所。佐屋御殿(尾張藩主の休息所)、船番所、船会所、奉行所佐屋代官所、が設置されていた。また、ここから津島神社の参拝道が分岐していた。

1781年、天明元年に尾張藩は海東・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けた。


 
江戸時代後期になると木曽川から支流の佐屋川へ流入する土砂の堆積により水深が浅くなり、佐屋湊への川舟の航行に支障をきたすようになった。佐屋湊では幕府の支援を受け川の浚渫なども行ったが土砂の堆積には抗しきれず、半里下流の五ノ三村(弥富市)に出湊として川平湊を開いた。

佐屋川の川底上昇に伴い、明和9年(1772年)佐屋船会所は幕府より貸下げ金を受け川浚いを行ったが効果はなく、文化5年(1808年)、佐屋は渡船場としての機能が果たせず、川下の荷之上村焼田に仮会所を設けられた。

三里の渡しは、佐屋湊から佐屋川、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川の順に川を下って桑名宿へ向かう渡船であった。なお、桑名から佐屋へ向かうルートは川を遡ることもあり、船賃は若干高く設定されていたようだ。

佐屋川は江戸末期には上流からの土砂で川幅が狭まり、水深も浅くなり浚渫や仮湊の設置が行われたが、木曽三川下流域の複雑な河道や頻繁に発生する洪水による土砂の流入により維持管理は容易ではなかった。
 
1872年(明治5年)、佐屋街道に代わって新東海道(前ヶ須街道)が定められ、三里の渡しは廃止となった。 なお、渡し舟の通っていた川のうち佐屋川と鰻江川についてはともに木曽川の分流であったが、いずれも明治の木曽三川分流工事に伴って廃川となり現存しない。  

余談だが、佐屋に関連した著名人がいる。24代内閣総理大臣(大正十三年・1924年)となった加藤高明は佐屋の出身、下級藩士服部家で生まれ、加藤家の養子になり、普通選挙法・治安維持法を成立させた。

(ネット上の情報を編集)

Saturday, 21 August 2021

宝暦の治水工事と千本松原(油島千本松仕切提)

 小学生の時に自転車で東海大橋(昭和44年、1969年4月19日開通)を渡って行ったし(よく行ったものだ)、遠足でも立ち寄った。当時は立田大橋はなく、東海大橋の下流側の橋は国道1号線の橋だった。

 立田大橋(昭和59年、1984年10月開通)を愛知県側から渡ると木曽川、背割り提(仕切堤)交差点、長良川を越えると右側に展望台があり、そこが木曽三川国営公園の展望台のある木曽三川公園センターという施設、揖斐川と長良川の間に位置する。

 
木曽三川公園センター
 
 このセンターのやや下流側に長良川と揖斐川が背割貞(仕切堤)を挟んで流れ、堤防には松が植えられていることから千本松原(油島千本松仕切提)と言われる。その仕切堤の始まる場所に宝暦の治水神社がある。この神社は江戸時代の宝暦年間に幕府から命ぜられた薩摩藩が治水工事を行った際に薩摩藩士85名の殉職者をだし、明治期の木曽三川分流工事後の昭和13年になってから殉職者を顕彰するために建立された。


 江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川の下流域は堆積による川底が高く、分流・合流を繰り返している暴れ川であり洪水が多発していた。また、この地区は美濃と尾張の藩境でもあり統一的な治水対策も行われず放置されていたが、徳川幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じて宝暦4年から5年(1754-55年)にかけて工事が行われた。工事は順調に進まず、成果も乏しく、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。



 明治新政府になり、お雇い外国人であったオランダ人土木技術者ヨハネス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により木曽三川分離工事が行われ、明治45年に完工している。その後、昭和13年(1938年)に薩摩藩士殉職者85名を祭神として顕彰するため治水神社が建立された。このような結果から宝暦治水事件とも称される。
 
国営公園木曽三川
宝暦の治水工事(NHK)
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403066_00000

 千本松原(油島千本松仕切提)は前述の通り、長良川と揖斐川の背割り提(岐阜県海津市海津町油島)のこと、ここに木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の三川分流工事に伴い、分流堤に約1000本の松が植えられたことから千本松原(油島千本松締切堤)と呼ばれている。



木曽三川分流工事後の千本松原(wiki)

宝暦の治水工事












Wednesday, 15 July 2020

木曽川シジミ

実家近くの木曽川産シジミ、上流の祖父江の人が下流の木曽川で採ったのを販売している、ということか。6月20日に出荷して即売所で冷凍してあったものを本日購入した。愛西市とあるが旧立田村であろう、長良川と木曽川の中洲に位置する福原地区には漁師がいた。幕府が薩摩藩に命じた治水工事の背割堤の千本松原(長良川と揖斐川の堤防)はその対岸になる。

Friday, 2 May 2014

木曽川シジミ

木曽川のシジミ、漢字では「蜆」と書く。汽水域、淡水域の二枚貝、木曽川下流は汽水域(塩分濃度1.5%以下)なのでヤマトシジミであろう

木曽川は著名なシジミの産地には名を連ねていないが地元ではよく知られている。立田大橋付近から下流で採れる。弥富から更にその下流の鍋田干拓地付近が多い。季節的には5月から10月ごろまで。

シジミ汁にしたが今回はいつものシジミの味が出なかったが、季節が関係しているのだろうか?

Friday, 12 April 2013

木曽川堤防より名古屋を望む

二枚目の写真中央奥に名古屋駅前のツインタワーが見える。ここは東海大橋脇の木曽川堤防上だ。





Thursday, 11 April 2013

木曽川と長良川を渡る東海大橋


供用: 1969年(昭和44年)4月19日
延長: 1,228.0m
木曽川 802.2m
長良川 425.8m

    幅員: 7.0m
    形式: 下路平行弦ワーレントラス
    径間: 20連(木曽川:13連、長良川:7連)
    区間: 愛知県愛西市給父町 - 岐阜県海津市海津町秋江

ライブカメラ
愛知県愛西市給父町地先 木曽川左岸22.9k 東海大橋
http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/livecamera/index04.html