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Wednesday, 23 August 2023

宝暦の治水と千本松原

 2021/8/22

【宝暦の治水工事と千本松原】小学生の時に自転車で東海大橋(昭和44年、1969年4月19日開通)を渡って行ったし(よく走って行ったものだ)、遠足でも立ち寄った。当時は立田大橋はなく、東海大橋の下流側の橋は国道1号線の橋だった。

 立田大橋(昭和59年、1984年10月開通)を愛知県側から渡ると木曽川、背割り提(仕切堤)交差点、長良川を越えると右側に展望台があり、そこが木曽三川国営公園の展望台のある木曽三川公園センターという施設、揖斐川と長良川の間に位置する。

木曽三川公園センター

 このセンターのやや下流側に長良川と揖斐川が背割貞(仕切堤)を挟んで流れ、堤防には松が植えられていることから千本松原(油島千本松仕切提)と言われる。その仕切堤の始まる場所に宝暦の治水神社がある。この神社は江戸時代の宝暦年間に幕府から命ぜられた薩摩藩が治水工事を行った際に薩摩藩士85名の殉職者をだし、明治期の木曽三川分流工事後の昭和13年になってから殉職者を顕彰するために建立された。

 江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川の下流域は堆積による川底が高く、分流・合流を繰り返している暴れ川であり洪水が多発していた。また、この地区は美濃と尾張の藩境でもあり統一的な治水対策も行われず放置されていたが、徳川幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じて宝暦4年から5年(1754-55年)にかけて工事が行われた。工事は順調に進まず、成果も乏しく、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。 

 明治新政府になり、お雇い外国人であったオランダ人土木技術者ヨハネス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により木曽三川分離工事が行われ、明治45年に完工している。その後、昭和13年(1938年)に薩摩藩士殉職者85名を祭神として顕彰するため治水神社が建立された。このような結果から宝暦治水事件とも称される。

国営公園木曽三川
宝暦の治水工事(NHK)

 千本松原(油島千本松仕切提)は前述の通り、長良川と揖斐川の背割提(岐阜県海津市海津町油島)のこと、ここに木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の三川分流工事(明治期)に伴い、分流堤に約1000本の松が植えられたことから千本松原(油島千本松締切堤)と呼ばれている。






Monday, 1 November 2021

船頭平閘門と木曽三川分流工事

子供の頃から行ってみようと考えていた旧立田村福原地区は、木曽川と長良川の中州、愛知県と三重県の県境に位置する。小中学校は福原分校というのがあった、福原地区のすぐ南側は長島町で三重県になる。つまり福原地区は中州なので立田大橋が出来るまでは渡し舟か、国道1号線の木曽川と長良川の橋と途中からが仕切り提のある三重県長島町から北上するアクセスしかなかった。2021年7月、立田大橋を渡って木曽川と長良川の背割り提から福原地区へやっと足を向けることができた。

 



その福原地区に船頭平閘門という木曽川と長良川の間をつなぐ閘門(式運河)がある。運河の定義では内陸閘門という。私的には閘門式運河のように見えた、まさしく、パナマ運河と同じ、閘門で閉じられた水路に船を進め、水を入れたり、抜いたりして、その先の河川の水位に合わせて船を航行する。プチパナマ運河のようだ。

 

なぜ、閘門がここにあるかというと、若干、木曽三川の歴史をさかk登らなければならない。木曽三川の下流域は、木曽川、長良川、揖斐川の三川が合流しており、逆流などして洪水など水害が絶えなかった。江戸時代にも分流工事に薩摩藩が幕府の命を受けて取り組んだ宝暦の治水があるが、明治期になり、オランダから技術者を招聘し、ヨハニス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により治水工事、つまり、木曽三川分流工事が行われた。

その分流工事により、それまでは木曽川から長良川の対岸まで航行できたが背割り提が築かれたことにより、河口まで下り迂回しないと木曽川から長良川へ、その逆も、航行できなくなり、水運に支障をきたすことが見込まれた。

そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後、1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定、1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。当時は、両河川の水面の高低差が約1メートルあり、閘門によりその調整を行うことにした。 

現在、長良川側の水位が木曽川の水位よりも約1.5メートル高い、それは長良川河口堰建設の影響とのこと。また、木曽川の水位が低いのは東海大橋上流に建設された馬飼頭首工の影響とのこと。

閘門の開閉は手動式であったが、1994年(平成6年)に電動へ改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には重要文化財に指定されている。

また、1987年(昭和62年)10月に開設された国営木曽三川公園中流部の一翼を担う船頭平河川公園として周辺一帯が整備され、木曽三川の治水工事に関する情報公開の拠点として木曽川文庫が設置された。公園内には、改修工事前の水門扉の展示や、明治の三川分流工事にを指揮したオランダ人土木技術者ヨハニス・デ・レーケ像がある。 

 

木曽川文庫は、船頭平閘門管理所の2階にあり、木曽川治水百周年事業の一環として1987年(昭和62年)10月8日に開設された。施設の床面積は約170平米、書籍や資料を所蔵する書架コーナーのほか、閲覧コーナーや資料の展示コーナーを備え、所蔵点数は約4,500点で、明治改修までの資料を中心としている。建物のデザインが、なぜこんな中州にヨーロッパと朝というか、パリっぽいデザインで驚いた。周囲の桜は立派で桜の季節に来てみたいと思わせる桜の大木が多く植えられている。



Saturday, 21 August 2021

宝暦の治水工事と千本松原(油島千本松仕切提)

 小学生の時に自転車で東海大橋(昭和44年、1969年4月19日開通)を渡って行ったし(よく行ったものだ)、遠足でも立ち寄った。当時は立田大橋はなく、東海大橋の下流側の橋は国道1号線の橋だった。

 立田大橋(昭和59年、1984年10月開通)を愛知県側から渡ると木曽川、背割り提(仕切堤)交差点、長良川を越えると右側に展望台があり、そこが木曽三川国営公園の展望台のある木曽三川公園センターという施設、揖斐川と長良川の間に位置する。

 
木曽三川公園センター
 
 このセンターのやや下流側に長良川と揖斐川が背割貞(仕切堤)を挟んで流れ、堤防には松が植えられていることから千本松原(油島千本松仕切提)と言われる。その仕切堤の始まる場所に宝暦の治水神社がある。この神社は江戸時代の宝暦年間に幕府から命ぜられた薩摩藩が治水工事を行った際に薩摩藩士85名の殉職者をだし、明治期の木曽三川分流工事後の昭和13年になってから殉職者を顕彰するために建立された。


 江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川の下流域は堆積による川底が高く、分流・合流を繰り返している暴れ川であり洪水が多発していた。また、この地区は美濃と尾張の藩境でもあり統一的な治水対策も行われず放置されていたが、徳川幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じて宝暦4年から5年(1754-55年)にかけて工事が行われた。工事は順調に進まず、成果も乏しく、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。



 明治新政府になり、お雇い外国人であったオランダ人土木技術者ヨハネス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により木曽三川分離工事が行われ、明治45年に完工している。その後、昭和13年(1938年)に薩摩藩士殉職者85名を祭神として顕彰するため治水神社が建立された。このような結果から宝暦治水事件とも称される。
 
国営公園木曽三川
宝暦の治水工事(NHK)
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403066_00000

 千本松原(油島千本松仕切提)は前述の通り、長良川と揖斐川の背割り提(岐阜県海津市海津町油島)のこと、ここに木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の三川分流工事に伴い、分流堤に約1000本の松が植えられたことから千本松原(油島千本松締切堤)と呼ばれている。



木曽三川分流工事後の千本松原(wiki)

宝暦の治水工事