子供の頃から行ってみようと考えていた旧立田村福原地区は、木曽川と長良川の中州、愛知県と三重県の県境に位置する。小中学校は福原分校というのがあった、福原地区のすぐ南側は長島町で三重県になる。つまり福原地区は中州なので立田大橋が出来るまでは渡し舟か、国道1号線の木曽川と長良川の橋と途中からが仕切り提のある三重県長島町から北上するアクセスしかなかった。2021年7月、立田大橋を渡って木曽川と長良川の背割り提から福原地区へやっと足を向けることができた。
その福原地区に船頭平閘門という木曽川と長良川の間をつなぐ閘門(式運河)がある。運河の定義では内陸閘門という。私的には閘門式運河のように見えた、まさしく、パナマ運河と同じ、閘門で閉じられた水路に船を進め、水を入れたり、抜いたりして、その先の河川の水位に合わせて船を航行する。プチパナマ運河のようだ。
なぜ、閘門がここにあるかというと、若干、木曽三川の歴史をさかk登らなければならない。木曽三川の下流域は、木曽川、長良川、揖斐川の三川が合流しており、逆流などして洪水など水害が絶えなかった。江戸時代にも分流工事に薩摩藩が幕府の命を受けて取り組んだ宝暦の治水があるが、明治期になり、オランダから技術者を招聘し、ヨハニス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により治水工事、つまり、木曽三川分流工事が行われた。
その分流工事により、それまでは木曽川から長良川の対岸まで航行できたが背割り提が築かれたことにより、河口まで下り迂回しないと木曽川から長良川へ、その逆も、航行できなくなり、水運に支障をきたすことが見込まれた。そのため、木曽三川分流工事が開始された1892年(明治25年)の2年後、1894年(明治27年)に木曽川と長良川の間をつなぐ水路の建設が決定、1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。当時は、両河川の水面の高低差が約1メートルあり、閘門によりその調整を行うことにした。
現在、長良川側の水位が木曽川の水位よりも約1.5メートル高い、それは長良川河口堰建設の影響とのこと。また、木曽川の水位が低いのは東海大橋上流に建設された馬飼頭首工の影響とのこと。
閘門の開閉は手動式であったが、1994年(平成6年)に電動へ改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には重要文化財に指定されている。
また、1987年(昭和62年)10月に開設された国営木曽三川公園中流部の一翼を担う船頭平河川公園として周辺一帯が整備され、木曽三川の治水工事に関する情報公開の拠点として木曽川文庫が設置された。公園内には、改修工事前の水門扉の展示や、明治の三川分流工事にを指揮したオランダ人土木技術者ヨハニス・デ・レーケ像がある。
木曽川文庫は、船頭平閘門管理所の2階にあり、木曽川治水百周年事業の一環として1987年(昭和62年)10月8日に開設された。施設の床面積は約170平米、書籍や資料を所蔵する書架コーナーのほか、閲覧コーナーや資料の展示コーナーを備え、所蔵点数は約4,500点で、明治改修までの資料を中心としている。建物のデザインが、なぜこんな中州にヨーロッパと朝というか、パリっぽいデザインで驚いた。周囲の桜は立派で桜の季節に来てみたいと思わせる桜の大木が多く植えられている。
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