小学生の時に自転車で東海大橋(昭和44年、1969年4月19日開通)を渡って行ったし(よく行ったものだ)、遠足でも立ち寄った。当時は立田大橋はなく、東海大橋の下流側の橋は国道1号線の橋だった。
立田大橋(昭和59年、1984年10月開通)を愛知県側から渡ると木曽川、背割り提(仕切堤)交差点、長良川を越えると右側に展望台があり、そこが木曽三川国営公園の展望台のある木曽三川公園センターという施設、揖斐川と長良川の間に位置する。
木曽三川公園センター
このセンターのやや下流側に長良川と揖斐川が背割貞(仕切堤)を挟んで流れ、堤防には松が植えられていることから千本松原(油島千本松仕切提)と言われる。その仕切堤の始まる場所に宝暦の治水神社がある。この神社は江戸時代の宝暦年間に幕府から命ぜられた薩摩藩が治水工事を行った際に薩摩藩士85名の殉職者をだし、明治期の木曽三川分流工事後の昭和13年になってから殉職者を顕彰するために建立された。
江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川の下流域は堆積による川底が高く、分流・合流を繰り返している暴れ川であり洪水が多発していた。また、この地区は美濃と尾張の藩境でもあり統一的な治水対策も行われず放置されていたが、徳川幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じて宝暦4年から5年(1754-55年)にかけて工事が行われた。工事は順調に進まず、成果も乏しく、工事中に薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。
明治新政府になり、お雇い外国人であったオランダ人土木技術者ヨハネス・デ・レーケの監督の下、近代的な土木技術により木曽三川分離工事が行われ、明治45年に完工している。その後、昭和13年(1938年)に薩摩藩士殉職者85名を祭神として顕彰するため治水神社が建立された。このような結果から宝暦治水事件とも称される。
千本松原(油島千本松仕切提)は前述の通り、長良川と揖斐川の背割り提(岐阜県海津市海津町油島)のこと、ここに木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の三川分流工事に伴い、分流堤に約1000本の松が植えられたことから千本松原(油島千本松締切堤)と呼ばれている。
木曽三川分流工事後の千本松原(wiki)
宝暦の治水工事
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