パナマで仕事をしたときに知った日本人技師、青山士(あきら)、パナマ運河建設に測量技師、設計技師として従事した。
パナマ運河工事委員会の委員だったコロンビア大学のBurr教授を頼って大学卒業後に渡米、運河工事が中断(フランスのパナマ運河会社が倒産し、米国が建設に乗り出すところ、そのためにパナマをコロンビアから分離独立(ヘイ・エルラン条約1903年)させた)していたことから鉄道会社を紹介され測量技師として働いた。
パナマ運河建設委員会にはBurr教授の紹介で1904年6月に採用され、パナマ運河開通(1914年)前の1911年11月まで従事、その後帰国、その背景には米国での日露戦争後の日本への警戒感の高まりがあったとされている。青山はガトゥン工区副技師長に昇進し、ガトゥン閘門の主要部分の設計を担当した。帰国後は内務省技師となり荒川放水路事業に係わった。
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