Sunday, 31 October 2021

明治の治水ー木曽三川分流事業(明治20年⁻45年)

子供の頃から木曽川は慣れ親しんだ近くの大きな川だった。 木曽三川の下流域は暴れ川で洪水、逆流を繰り返していたと、小学校の授業で教わった。東海大橋のある愛知県側の木曽川の河原は広く、砂丘が広がり、やや下流にはチンショウと呼んでいたケレップ水制があり、その先端までよく行ったものだ。それ以来、振り返る余裕がなかったが、地元を離れているうちに河川行政がどんどん変わり、上流に馬飼頭首工が建設され、ケレップ水制は取り払われ、河川敷にはスポーツグラウンドが出来ていた。あれから数十年の時間が流れたが実家に戻ると東海大橋の袂から木曽川を眺めつつ、分流事業として何が行われたのか、と若干、振り返ってみることにした。

木曽三川分流事業(1887年(明治20年)から1912年(明治45年))

三川の下流域は古くから洪水による水害が多く、三川も大洪水によって分流・合流を繰り返していた。1754年(宝暦4年)の宝暦治水以降、この下流域(輪中地帯)の洪水は放置されたままであり、1871年(明治4年)岐阜、愛知両県の堤防取締役らが三川分流を明治新政府に上申した。

その後、愛知、岐阜、三重の三県による陳情が功を奏し、明治政府によって招かれた10人の外国人技術者(お雇い外国人)のオランダ人技師の一人、ヨハニス・デ・レーケが1877年(明治10年)に派遣され事業が着手された。翌1878年(明治11年)に三川と周辺の地形を調査し、1885年(明治18年)に分流計画書を作成、1887年(明治20年)に着工された。

木曽三川の下流域は分流工事前には、木曽川と長良川は現在の東海大橋のやや上流で合流し、国営木曽三川公園(宝暦治水神社)の付近で揖斐川とも合流し、直後に現在の揖斐川と木曽川に分岐していた。三川の東岸は木曽川とその派川である佐屋川に挟まれた細長い立田輪中(現在の愛西市西部域)となっており、長良川と揖斐川に挟まれた高須輪中(現在の海津市や輪之内町など)は3つの派川によって小さな輪中に分断されていた。

宝暦の治水と区別するために明治の治水とも呼ばれる。

木曽三川の完全分流工事の主な目的は以下の3つであった。
1)洪水対策
2)輪中堤防内の排水改良
3)堀田の改善

分流工事は、オランダから輸入された浚渫船木曽川丸での木曽川河口の川底掘り下げから始まった。工事中には土地を失う地主の土地買取拒否や、大雨や台風による度々の堤防決壊(明治三大水害)などで難航し、概ねの完成は1899年(明治32年)、全工程完了は1912年(明治45年)となった。

木曽川と長良川は高須輪中の東部(東海大橋上流から現在の海津市海津町外浜付近まで)を新長良川、立田輪中の西部(現在の旧立田村愛西市葛木町から立田町まで)を新木曽川とし、堤防にケレップ水制の技術を用いた堤を築いた。現在の国営木曽三川公園付近は、油島千本松締切堤で揖斐川と長良川が完全に分流され、新木曽川と新長良川に挟まれた福原(現在の愛西市立田町福原)には船の往来を可能とする船頭平閘門が建設された。

ケレップ水制:
ケレップはオランダ語でKribで「水制」「防波堤」の意味、なので重なるが日本語ではよくある。ケレップ水制は堤防と直角なかに設置され、蛇篭などで、低水時の流路を狭めることにより低水路を確保し、船舶の航行を円滑にすることを目的にしている。

三川の東岸では佐屋川が廃川となり、高須輪中では3つの派川が堤防で締め切られた。また、木曽川と揖斐川の河口には、伊勢湾への流れを制御するための導流堤が設けられた。

完工を祝って行われた1900年(明治33年)4月22日の成工式は、当時の山縣有朋総理、西郷従道内務大臣らが参列する盛大なものだった。

陳情から28年、着工から12年の年月を要し、当時の最新技術に基づいた完全分流工事は著しい効果を挙げ、旧海津郡などの1899年の10年前後を比較した資料によると、水害による死者は306人から10人へ、全壊家屋または流失家屋は15,436軒から304軒へ、堤防の決壊箇所は1821箇所から226箇所と激減し、近代的な土木技術による明治改修の効果のほどを物語っている。

佐屋川がこの分流工事で廃川となった。


No comments: