Tuesday, 17 November 2020

尾張地方のはたや(機織屋)と片岡毛織

尾張地方の津島、一宮、稲沢の名古屋都市圏には、朝鮮戦争特需に起因し大規模な紡績産業が1950年頃から集積、ガチャ万景気と言われた紡績業の景気拡大現象が発生する。

元々、毛織物業の産地であったことにもよるのだろう、津島市には片岡春吉により片岡毛織という染織、毛織物、糸染の紡績会社が明治31年(1989年)に設立している。

片岡春吉は、尾州毛織物の始祖とされる片岡毛織は、宝塚音楽歌劇学校の袴地や警察予備隊の制服地を製織し、日紡貝塚女子バレーボールチームのユニフォーム生地の製作するなど名門企業であった。

http://www.1898.jp/rekishi.html

1898年(明治31年) - 創業者片岡春吉により片岡毛織工場が設立され、操業を開始
1919年(大正8年) - 片岡毛織株式会社が設立
1924年(大正13年) - 創業者片岡春吉が52歳で没す

この間、飛躍しているのでこちらを。
2006年(平成18年) - 3月末をもって自主廃業

実家のある尾張地方は先の通り紡績業が盛んであり大企業(ニッケ、御幸、東レなど)を含めて多くの紡績業が視野に入ってきた。中小は機織(はたおり)と呼ばれた。小学生の頃には既に産業自体の存続が厳しい状況であり70年代までは固定為替制から存続していたが、その後、変動相場制移行と輸入繊維品に押されていく。
 
農村地帯には小規模機織り屋が立地した。小学生の頃は、農村では巨大な音を出す「はたや(機織り屋)」の自動織機とは何なのか興味津々でった。「ガチャ万」という言葉を聞いたのはその頃だ。 

父は若いころ、この片岡毛織に勤めていたし、母も結婚前までは毛織物業に従事していた。父は、招集により片岡毛織を退職、子供の頃に退職せずともよかったのでは、とその当時の苦労を思いながら母からよく聞かされた。 

実家の地区は基本的に農村なので農家であるが、純粋な米作りだけでは成り立たないこともあり、花卉園芸や生姜生産などにシフトしていき、ある家はそういう「ガチャ万」に惹かれたのか、小規模なはたや(機織屋)が存在した。それがたまたま、実家の前の家で、子供の頃は騒々しい、という印象しかなかった。三重県と宮崎県から女工さんが働いていた。

毛織物業は、俯瞰するとしっかりと、父とその姉家族にどっぷりと繊維産業に浸かっていた。その伯母の子供たち、私と一世代以上差があるが、皆さん、毛織物業界で働いていたし、伯母の旦那、義理の伯父は愛知県庁の繊維関係の組織で働いていた、子供の頃なので理解していなかったが。

つづく

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