荻須高徳のリトグラフ、サンマルタン運河だが「パリの散策」とある。
サンマルタン運河に架かる木橋、1970年代後半か1980年代初頭か?
2021年12月14日
帰省をこの日程に合わせた。というのは、この年の夏か春に帰省した時に訪れる、展示はどのように変えているのですか、と尋ねたところ、生誕120周年記念展を開催します、との情報をいただいたので、これは是非と。なかなか見応えのある展覧会だった。
パリの日常風景を描き続けた荻須高徳の生誕120年記念展に行ってきた。この美術館、実家の近くにある。この画家を知ったのはこの美術館が開館した1983年で日経アーキテクチャーが特集したからだ。設計コンペが行われ竹中工務店が設計を担当した。
所蔵している美術館の永続的なデザインも素晴らしい器だが荻須の作品は、味わいがあるパリなどの風景、今回、油絵81点が展示された。京都、稲沢と開催され次は広島とのこと、東京では開催しないのは残念。
荻須は東京美術学校当時、ウチの近所にあった伯父の家に住んでいて目黒の大塚山や恵比寿の風景も描いているが、今回は入っていなかった。その関係なのか目黒美術館もいくつか所蔵している。ちなみにポスターは既に品切れで目録だけをいただいた。ポスターのガレージはパリ万博に出品された作品、この時ピカソが出品したのがゲルニカだった。
開館当時、荻須高徳は現役でありその当時に作成されたビデオ30分x2が観られる。開館にあたり荻須高徳から油彩10点を含む123点が寄贈されている。現在、油彩38点を含む242点を所蔵、常設展でもその醍醐味のあるタッチを十分味わえる。
「田舎の中学からぽっと出てきたのが美校美校を通らなかったのは当たり前だと思いました。」
叔父である荻須治一(フランス料理「三緑亭(芝増上寺裏)」の支配人)の家が芝白金三光町にありこの辺りの情景も記している。(仏料理の老舗The Crescentが2020年10月末日で閉店したが、ここは増上寺の表)余談だが、大宰相・原敬のなかで「政友会の会合は、日本料理は築地の花谷、洋食は芝の三緑亭をよく使った。この二つの料理屋の名前は日記にもよく出てくる。花谷は、原が農商務大臣の秘書官だった頃、陸奥農相に連れられて初めて行ったのが縁で、その後も何かと世話に…」との記述がある。
「目にとまる変化といえば、点在するお寺と神社の森しかない平野地帯に育ったぼくにとっては、東京で初めて住んだ芝白金三光町の起伏のある風物、聖心女学院の教会の塔、ヱビスビールの煙突の並び、大谷石の壁、坂道と切通し、まるで異国へ来たかのような印象で、ことごとく画心をそそられました。」、荻須高徳『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』東京新聞出版局、1980年
白金三光町のあと、荻須の叔父は現在の目黒区三丁目、大塚山(古墳跡がある)付近へ引っ越した。この時、《目黒、大塚山からサッポロビール工場を望む》(1925-26年)、《目黒、大塚山の風景》を描いている。この頃、まだ目黒競馬場があったころで1933年に府中へ移転している。
昭和5年の目黒の地図、下目黒の目黒競馬場の北側に大塚という字名があるがここが大塚山、ここから地図の北の端にある大日本麦酒会社の文字が見える、を観た景色であろう、実際、目黒川の谷越えの風景であり、家屋は違えど地形は変わっていない。
https://www.meguro-library.jp/data/oldmap/map9a/
第二次世界大戦の影響でパリから帰国、1940年8月から1948年10月まで大塚山の叔父の家で暮らしていた。朝日新聞社文化企画部,目黒区美術館『生誕100年記念荻須高徳展』朝日新聞社・NHK、2001年
1936年⁻1942年の下目黒の航空写真、目黒競馬場跡地の痕跡がよくわかる。大塚山は元競馬場の目黒通りを挟んで反対側辺り。
荻須高徳は現在の稲沢市、旧中島郡千代田村井堀の生まれ育ちである。井堀と同じ三宅川の自然堤防上の隣村である矢合には尾張国分寺が置かれた歴史のある土地柄である。旧制愛知三中に東京美術学校で黒田清輝教室を卒業して赴任してきた大橋貞一教師との出会いが画家を志すきっかけとなる。
ぼくは幸か不幸か、二男二女の二男坊で「この家のものは全部兄さまのもの、おまえは外へ出て行ってひとりだちしなければならん」といわれて教育されたものです。荻須高徳『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』東京新聞出版局、1980年
と荻須は地主であり村長を務める父親のこと綴っている。