Friday 4 June 2021

荻須高徳が見た目黒・白金の風景

 荻須高徳、昭和の西洋画家で、東京美術学校卒業後の1927年、昭和2年に渡仏、パリを拠点に、終生パリで亡くなる1986年まで街の風景中心に描き続けた。レジオンドヌール勲章、文化功労章、文化勲章を叙勲している。その荻須が渡仏前や第二次世界大戦中に叔父荻須治一の家があった白金や下目黒に約8年間住んでいた。荻須が見た芝白金三光町や大塚山界隈の下目黒はどんなだったのだろうか。





荻須高徳(明治34年、1901年愛知県稲沢市生まれ)が大正10年(1921年)に旧制愛知三中を終え叔父の支援の下上京し、東京美術学校を受験したものの通らず、藤島武二先生の川端画学校(小石川下富坂町)へ通いながら翌年の受験準備をしているころの回想、

「田舎の中学からぽっと出てきたのが美校美校を通らなかったのは当たり前だと思いました。」

叔父である荻須治一(フランス料理「三緑亭(芝増上寺裏)」の支配人)の家が芝白金三光町にありこの辺りの情景も記している。(仏料理の老舗The Crescentが2020年10月末日で閉店したが、ここは増上寺の表)余談だが、大宰相・原敬のなかで「政友会の会合は、日本料理は築地の花谷、洋食は芝の三緑亭をよく使った。この二つの料理屋の名前は日記にもよく出てくる。花谷は、原が農商務大臣の秘書官だった頃、陸奥農相に連れられて初めて行ったのが縁で、その後も何かと世話に…」との記述がある。


「目にとまる変化といえば、点在するお寺と神社の森しかない平野地帯に育ったぼくにとっては、東京で初めて住んだ芝白金三光町の起伏のある風物、聖心女学院の教会の塔、ヱビスビールの煙突の並び、大谷石の壁、坂道と切通し、まるで異国へ来たかのような印象で、ことごとく画心をそそられました。」、荻須高徳『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』東京新聞出版局、1980年

白金三光町のあと、荻須の叔父は現在の目黒区三丁目、大塚山(古墳跡がある)付近へ引っ越した。この時、《目黒、大塚山からサッポロビール工場を望む》(1925-26年)、《目黒、大塚山の風景》を描いている。この頃、まだ目黒競馬場があったころで1933年に府中へ移転している。

昭和5年の目黒の地図、下目黒の目黒競馬場の北側に大塚という字名があるがここが大塚山、ここから地図の北の端にある大日本麦酒会社の文字が見える、を観た景色であろう、実際、目黒川の谷越えの風景であり、家屋は違えど地形は変わっていない。


https://www.meguro-library.jp/data/oldmap/map9a/

第二次世界大戦の影響でパリから帰国、1940年8月から1948年10月まで大塚山の叔父の家で暮らしていた。朝日新聞社文化企画部,目黒区美術館『生誕100年記念荻須高徳展』朝日新聞社・NHK、2001年

1936年⁻1942年の下目黒の航空写真、目黒競馬場跡地の痕跡がよくわかる。大塚山は元競馬場の目黒通りを挟んで反対側辺り。

 荻須高徳は現在の稲沢市、旧中島郡千代田村井堀の生まれ育ちである。井堀と同じ三宅川の自然堤防上の隣村である矢合には尾張国分寺が置かれた歴史のある土地柄である。

旧制愛知三中に東京美術学校で黒田清輝教室を卒業して赴任してきた大橋貞一教師との出会いが画家を志すきっかけとなる。

ぼくは幸か不幸か、二男二女の二男坊で「この家のものは全部兄さまのもの、おまえは外へ出て行ってひとりだちしなければならん」といわれて教育されたものです。荻須高徳『私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想』東京新聞出版局、1980年

と荻須は地主であり村長を務める父親のこと綴っている。




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