Monday, 21 June 2021

スラバヤの熱い記憶-1996-97年

FBの思い出は何年か前の今日の出来事を表示してくれる。その中に、1996-97年のスラバヤの写真を何年か前に投稿したのが今日表示された。スラバヤ、思えば熱い記憶だった。


1996年4月、7月、11-12月、1997年1月、3月にスラバヤに滞在でした。会社の同僚・上司はですインドネシア専門と言えるような人が多かったが私としてはこの時がインドネシア初で言葉も含めて苦労した。最初、Hyatt Regency Surabaya(現Bumi Surabaya)に宿泊していた。

その近くにテニスクラブがあった、多分、その前を車で通りかかって知ったのだろう。今はグーグルマップをみても見つからない、川の近く、政府系ビルに建て替わったのだろうか。週末、上司達はゴルフに出かけていたが私はこのクラブへ徒歩で、ビジターでもOKだった、コーチは愛嬌のあるこの人、1時間練習すると大汗をかく、これは気持ちよかったが滞在期間が短かったので数回通っただけの記憶だ。写真を見る限り、4面はあったのだろうか。





スラバヤでは事務所が郊外にあり毎日その事務所へ車(トヨタのキジャン)で通勤し、移動は車が多く徒歩では出かけることは少なかった、ホテルから北が旧市街のようだったが、これは後から知ったことだ。




写真はスラバヤの街並み、オレンジ色の屋根が特長だった。オープンしたばかりのThe Westin Surabaya (後のMarriott)のペントハウス(25Fのアパートメント)からだ。途中でホテルを変わった、上司がゴルフ場でここのマネージャーと一緒になり紹介を受けたとのこと、MarriottのサービスアパートメントがHyattと比較してリーズナブルだったからだ。
The Westin Surabaya (Marriott)からのスラバヤ、1997年


その近くの潮州料理屋が美味しくて上司とよく通った。スラバヤは旧日本海軍の軍港があり、戦時中、Majapahit Hotel(アルメニア系サーキース兄弟が1911年に開業)を接収、ヤマトホテルとして使っていた。当時、マンダリンが入手して改装中で1998年にホテルとして再オープン。2006年にCipta Cakra Murdaya (CCM) groupが買収。マドゥラ島とを繋ぐスラマドゥ橋(2009年完成)はアイディアレベルだったが今や現実のもとなっている、インドネシア企業と中国企業との合弁で建設した。

Hyattに泊まっているときのある週末、夕食時にレストランで20代の女性達と知り合った。英語でコミュニケーションが取れたので興味本位でいろいろ聞いたのだろう、勤務終了後に友達同士で来ていた。政治やプライベイトな話は口が重かったので部屋へ招いてお茶をした。彼女はクリスチャンでカレッジを卒業、私はインドネシア人と中国系のハーフ、大学を出て今は企業で働いているなどなど、政治のことは関心高く部屋の中ということもありかなりストレートな意見を述べていた。

数日後に連絡があり、当時はスハルト政権末期(1998年10月まで)で野党勢力の活動がスラバヤでも盛んでその集会へ行くので一緒にどうかと誘われ、軽四輪を改造した乗合タクシーでスラバヤの街をどこをどういったのかわからないが、あるカフェに着いた。学生や若者などが多く集まっていた、会話はさすがにインドネシア語なのでわからなかったが彼女は訳してくれた。そのスラバヤの熱さが強く印象に残っている。

その後、1997年のアジア経済危機によりインドネシアは通貨ルピアの大幅な切り下げを余儀なくされ経済的に甚大な打撃を受け国民生活は苦しくなる一方、それまでのファミリーへの利益配分(マダム・ティエン・パーセントと大統領夫人が呼ばれていた)が国民の怒りをエスカレートさせ、1998年の大統領選に7選していたもののジャカルタをはじめとする地方都市を含み学生による反政府デモが激化、一般市民を巻き込んで大規模、暴徒化したことを受けて1967年以来、スカルノから禅譲されたインドネシア第2代大統領職を1988年5月に辞任表明し、ハビビ副大統領が昇格した。

この時期のことは既にスラバヤを離れており日本か仕事先で聞いていたのだろう。1999年6月、ハビビ政権が新たに制定した総選挙でメガワティ率いる闘争民主党にゴルカルが破れ、その後の国民協議会でワヒドが第4代に選出され、メガワティが副大統領が就任した。2001年にワヒド大統領が国民協議会で弾劾、解任されるとメガワティが第5代大統領に昇格した。メガワティは初代大統領スカルノと第一夫人ファトマワティの長女であり、9・30事件以降、辛酸をなめていた。

スカルノはスラバヤ生まれであったこともあり、東ジャワの州都スラバヤでは反スハルトが強かったのであろう。その時、ストレートに熱い若者たちの鼓動を感じた。以後、インドネシアと縁がないがスラバヤは再度ゆっくり歩いてみたい街だ。










The Westin Surabayaの反対側


ロビーの天井の高い空間は素晴らしかった

この方々の性格なのか、これがまた素晴らしかった、レセプションにて















コストパフォーマンスの高い宿泊料金だった、小奇麗なレストラン、週末はゆっくりここで朝食をとった。


英文学者野口米次郎と津島と天王川公園

天王川公園の中之島は子供の頃よく遊びに行った。当時、野口米次郎の銅像があったのか、記憶していない。片岡春吉の銅像は堤を背にして大きかったのでその存在は覚えているがそれが片岡春吉だと認識したのは後のことである。後に著名な英文学者である野口米次郎が津島出身であり、イサム・ノグチの父であることを知った。銘板には津島が生んだ国際的詩人と刻まれている。 
 
野口米次郎(ヨネ・ノグチ)は、愛知県津島市(海東郡津島町中島)出身の詩人・英米文学者であり、慶應義塾大学英文学教授として明治38年より昭和17年まで教鞭をとった。津島市天王川公園の中之島に「ヨネ・ノグチ像」があり台座に英詩「Lines(天地創造)」が刻まれ書籍を携えて椅子に腰かけたヨネ像がある。三田評論に野口米次郎の生家のことが掲載されていたことが目に止まり、あらためて実家へ帰ったときに出かけてみた。

Twitter wikivictorianより
 

野口米次郎は愛知尋常中学校へ進学し、明治23年、15歳の時に家出をし、明治24年に慶應義塾大学へ入学、英米文学夢中になり渡米を志す。明治26年に退学の挨拶を福澤先生に伝えに行くと「結局人生は一六勝負だ(一六はサイコロの目)」と激励された。

明治26年、17歳で渡米、詩人ウォーキン・ミラーと出会い明治29年に詩集を発表、その際、不十分な英語力を補い添削、編集を行っていたレオニー・ギルモアと恋愛関係になり、その息子がイサム・野口である。

野口米次郎の生家が津島市本町4-22に残っている、子孫が所有しているが既に二十年来無住でかなり傷みが激しい。この先、どうなるか不安である、と三田評論が指摘している。グーグルマップで確認したところ、野口米次郎と略歴が書かれた銘板が門横の板塀に掲げられてる。

 



 
 天王川公園の中之島に建つ銅像(2021年7月、筆者)

津島市は江戸時代には七里の渡し(熱田(宮)‐桑名)の代替ルートであった三里の渡し-佐屋の渡し(佐屋湊-桑名)の一里ほど上流にあった津島湊であり、野口米次郎の銅像が建つ天王川公園が津島湊であった。津島湊か天王川を下り、佐屋湊から佐屋川を下り木曽川から鰻江川を通って桑名宿までの河川水運であった。
グーグルマップで生家の住所を検索すると現存する住宅が写真とともに表示される。門左の板塀に野口米次郎の名前と略歴が示された銘板が貼られている。野口家なのか津島市なのか定かではない。津島市はこういう歴史的な遺産をもっと大切にすべきであるが、天王通りの惨状からは行政のマネージメントが問われても致し方ない。近隣の稲沢市では同市井堀出身の荻須高徳画伯を記念した美術館を建設し功績を讃えていこととは対照的である。
野口米次郎、詩人・英米文学者の生家
〒496-0805 愛知県津島市本町4丁目22
第78回 三田評論 2013年4月号 ヨネとイサム・ノグチ 二重国籍者の親子
https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1304_1.html

ザンビアの初代大統領であったケネス・カウンダ、97歳で逝去、RIP

ザンビアの初代大統領であったケネス・カウンダ、97歳で逝去、独立運動を牽引した。21日間の喪に服す大統領令が出された。ザンビアは1964年の東京オリンピック開会式で北ローデシア国旗で入場し、ザンビア国旗で閉会式を行進した。

数回、大統領の演説を聞いたことがある、人民服っぽサファリスーツ、白いハンカチと各部族語への逐次通訳が印象的だった。1991年11月に複数政党制導入後の大統領選挙で敗退、下野した。

1986年、IMF融資の条件であった主食ミルミルへの補助金カットを実施したところ暴動に発展、以後IMF要請を拒否、親ソ国だったが、ソ連邦の崩壊とと時を同じくするように辞任、無血で禅譲したことはその後のザンビアには好影響だった。

中国との関係はニエレレ・タンザニア大統領とともに1960年代からタンザン鉄道建設で関係していた。社会主義を標榜、反アパルトヘイト体制を先鋒であり、亡命ANC本部、UN-Namibiaをルサカに迎えた。南ア空軍がルサカのANAを空爆したこともあった。チサノ・モザンビーク大統領がルサカでのカウンダ大統領との会談の帰途、航空機が墜落する事故もあった。日本は銅、コバルトを輸入している。May they rest in peace.

https://www.bbc.com/news/world-africa-16039411

Sunday, 13 June 2021

アレクサンドル・ネフスキー寺院の想い

 アレクサンドル・ネフスキー寺院、ソフィアの顔だろう、この写真は2011年5月に行った時なのでもう10年前になる。

ブルガリアだけ行ったわけではなく2010年に出張していたアルメニアのエレバンのアパートの整理に行った、継続しする仕事がなかったからだ。

ウィーン経由でイェレヴァンを往復、復路にウィーンからソフィアを往復したのだ。実に10数年ぶりのソフィアだった。







Friday, 11 June 2021

Google Mapのクチコミを匿名(ニックネーム)に変更する方法

Google Mapでのクチコミ表示は、デフォルトだと登録した時の氏名なりメールアドレスの名前になっている。この表示を変更することは可能だが、だからと言って匿名になるわけでもなく、クチコミはクチコミの性格の通りである。
しかし、テクニカルには以下の通り、個人情報で姓名を変更すればよい。
https://myaccount.google.com/personal-info

Wednesday, 9 June 2021

第二次ナゴルノカラバフ紛争-2020年9月27-11月10日

第二次ナゴルノカラバフ紛争(2020年9月27-11月10日)

昨年後半の主要な出来事でだった第二次?ナゴルノ・カラバフ紛争、コロナ過に拡大の陰に隠れてしまったのか、ふと、思い出した次第。 以下リンクは昨年末までのアゼルバイジャンとアルメニアに関する文書です。
 
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター



 

東京23区の図書館、使える!

23区の区立図書館、といっても近隣の港区、目黒区、渋谷区程度しか知らないが、けっこう使える。有栖川公園の都立図書館は確か貸し出しができなかった記憶だ。

区によってそれぞれ利用ルールが異なる、基本的に東京都に在住・在勤なら利用登録ができる。「品川区立図書館では、区内在住・在勤(在学)に関係なく、どなたでも利用カードを作る事ができます。」という区もある。

新聞・雑誌類も豊富でそれを読みに来ている住民も多い。それよりもかなりの蔵書数で、その区になくとも他の区を検索すれば概ね見つかる。

図書館は中央図書館という名称もあるが、並列で多くの図書館が区内各所に存在し利便性は高い。

ウェブページも少しづつ区ごとで異なる、面白い。予約すれば指定の図書館で受け取れる。

目黒区立図書館

https://www.meguro-library.jp/

港区立図書館

https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/j/

渋谷区立図書館

https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/

気になっている図書館が一つある。

それは北区中央図書館だ。この建物の一部はかつての日本陸軍の倉庫であり、明治38年、1905年、東京銃砲製造所が十条へ移転し、大正8年、1919年に赤レンガ倉庫(旧275号棟)完成している。その後、陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所など名称が変遷し、昭和20年の終戦により米軍に接収され東京兵器補給廠となる。昭和33年、1958年に返還、陸上自衛隊十条駐屯地275号棟倉庫として使用、平成20年、2008年に図書館として開館した。

https://www.library.city.kita.tokyo.jp/


Monday, 7 June 2021

蛍光灯の点灯方式の混在ー洗面所の手元照明と下足入れ下の足元照明は異なる点灯方式だった

 この部屋には蛍光灯の点灯方式が混在している。2箇所だと思うが、洗面所の手元照明は電子安定器(インバータ)方式、他方、下足入れ下の足元照明はグロー球方式の点灯方式となっている。

蛍光灯の点灯方式

 これが1年ほどかけてやっとわかった結果だ。その設計思想はこれから確認しなければならない(事業主の不動産会社の担当はどうもそういうことに耳を傾けたくないという姿勢)。

 入居当初、照明を全てLEDへ交換しようとしたが、その当時は蛍光灯型LEDの開発が遅れておりそのままにしていたが、ある時から商品が出回ることを認識し、よく考えずにアマゾンでアイリスオーヤマのグロー球方式LED20形を購入して交換しようとしたら、グロー球ソケットが見当たらなかった。

 グロー球だと考えたのは、現在、洗面所の手元照明用に付いている蛍光灯が三菱電機製のFL20SS EX-L/18というグロー球用の蛍光灯だったからだ。それに、玄関の下足入れ下にある蛍光灯は同じ仕様でグロー球が表に出ていて明らかにグロー球方式とわかるもの。洗面所は当然ながらグロー球点灯方式のLED20形を付けても点灯はしなかった。

 それで、この共同住宅の管理会社へ電話で問い合わせしたところ、電気屋に見てもらってください云々という対応だった。それで、自ら洗面所の蛍光灯器具を取り外して中をみたが、グロー球ソケットはなく、器具の様式が素人には判らなかった。

 量販店の照明器具売り場で写真を見せて確認したら、現行の蛍光灯(FL20SS EX-L/18)のモデルからグロー式LEDとのこと。

 腑に落ち直いままそのまま時間だけが過ぎていった、が、喉の奥に何か引っかかったようなままで、再度、管理会社へ問い合わせたところ、事業会社へ問い合わせを行いその結果が「洗面所は電子安定器(インバータ)方式で下足入れ下がとグロー球方式」との説明だった。インバータ方式はFHF蛍光灯を使用するがグロー球方式はFL蛍光灯を使用する。

 ここでも腑に落ちなかったが、説明からグロー球方式のFL蛍光灯がインバータ方式での使用が可能ということになる。現在の洗面所の手元照明がインバータ方式でグロー球方式の蛍光灯が付けられているので、そういうことになるが、そうなのか?最終確認はまだできていない。

Sunday, 6 June 2021

アシガバードの記憶-2009年3月16-20日

2009年3月16-20日、トルクメニスタン🇹🇲の首都アシガバードにタシケントからイスタンブル経由で出張した。


アシガバードは3/18の早朝に着いて3/20の早朝に発っている。空港は建て替えられて数年なのであろう新しかったが電子化が遅れていてマニュアルが多かった。日本からのミッションに同行したので入国はCIPを利用、当然難なく入国。困ったのがホテル、予約済みであったが一部屋足りないことになり男同士でツインをシェアした。理由を聞いたらUAEの首長が狩りに来ていてお供のため部屋を抑えているからとのこと。

この時はミッションともども種々のアレンジで日本大使館にたいへんお世話になった。大使館のあるビルの屋上にレストランがありそこで食事会も開いていただいた。夜景は鮮やかな色の光が多くまぶしかった、産ガス国の趣味であろうか。

とにかく新しいビルを建設中だった、多くが住宅で公務員向けであった。事務所ビルのエレベーターが皆三菱エレベータだったのにタシケントから来た身にはやや驚きであった。会議がぎっしりと詰まっていたので写真が少ないし、外務省の職員が同行していて写真には非常に敏感だったこともある。