初めて海外へ行った1983年2月だった、ロンドンに着いて数日後にビクトリア駅から夜行鉄道でFolkstoneへ、そこからドーバー海峡をフェリーで渡り(乗車したままだったか?)、ベルギーのOstendeに早朝着き、鉄道ですぐ近くのブルージュ駅迄行き、駅から旧市街まで歩いた。そして、真冬で水面は凍っていたが写真のような美しい街が視野に入ってきた、感動の連続だった。
後に、1985年に写真のような夏季のブルージュを観たくて再訪した。
初めて海外へ行った1983年2月だった、ロンドンに着いて数日後にビクトリア駅から夜行鉄道でFolkstoneへ、そこからドーバー海峡をフェリーで渡り(乗車したままだったか?)、ベルギーのOstendeに早朝着き、鉄道ですぐ近くのブルージュ駅迄行き、駅から旧市街まで歩いた。そして、真冬で水面は凍っていたが写真のような美しい街が視野に入ってきた、感動の連続だった。
後に、1985年に写真のような夏季のブルージュを観たくて再訪した。
2019/9/28、任期中最後のイラク、バグダードとエルビル出張のアンマンへの復路、普段はセキュリティコードに触れそうな早朝フライトを選択しないが我儘な同行者がいるとこうなる。いつものコントロールリスク社のベテラン警備チームに空港まで送ってもらった。
残念だったが、この直後からイラク国内で反政府デモが頻発するようになり治安が悪化、翌年初頭には空港でイランの革命防衛隊の司令官が爆殺された。
早朝、空港まで送ってもらったベテランの警備チーム、丁度、夜明けが美しかった。5時起きでボーとしていた。通常、アンマンへの戻りは午後なのだが同行者が無理なスケジュールで来たので警備費用もありそれに合わせたが、こういう国では一個人の都合で急いではいけない。
1枚目のランクルは駐車中なだけで我々のではない。空港内は1台だけですが宿舎から空港までは3台のコンボイ移動。
今夜は中野駅南口のレンガ坂商店街にあるタイ東北地方イサーン料理屋で友人と夕食、南口は初めて来ました。
バンコクに滞在していた90年代前半、タイ料理は毎日の味でしたが、イサーン料理の味付けを正確に認識しておらず、この店のイサーン出身のマスターに確認しました。
魚の塩辛という表現を使っていましたが小魚を発酵させた魚醤プラーラーปลาร้า Plār̂āだと思います。ソムタム・ラオ(プラーラー)、やや塩辛い味付けと辛さ、辛さはかなり抑えてありましたが。サイ・クロ・イサーンという腸詰、グーン・オムという野菜スープをカオニャオといただき、生麺のクイッティアオ・パシイウ・ガイ(幅広い米粉麺の鶏肉炒め)など、クルアン・プルンเครื่องปรุง Kherụ̄̀xng prung(テーブル調味料セット:砂糖、唐辛子入りの酢、粉唐辛子、ナンプラー)で味付けして、いつも唐辛子入り酢を使います、美味しくいただきました。
アロイマークอร่อยมาก Xr̀xy māk、店の名はタイ語のタマネギとのこと。
「東京のディープなアジア人街 」という本があった、こういう本に東京首都圏のリトルバンコク情報が載っていそう。
南インド料理、スパイスの効いたあっさりした料理(基本はカレーですが)で長年、友人と通っている。特に今夏のような猛暑日が続くと自然と食べたくなる料理なのです、私的には。
インドに詳しい友人の南インド料理店の経営形態の推移の考察、時系列的に1-4のようになり現在4の段階、一言で言うとネパール化が進んでいるということのようです。
1経営(インド)又は日本、接客(インド)、調理(インド)
2経営(ネパール)、接客(ネパール)、調理(インド)
3経営(ネパール)、接客(ネパール)、調理(インド、ネパール)
4経営(ネパール)、接客(ネパール)、調理(ネパール)
これは全国的に南インド料理のネパール化が進んでいると思われる、とのこと。
特にここ数年、南インド料理店をはじめ北インド料理店もネパール化が肌感覚で進んでいる印象を受けている。南インド料理に達する前は北インド料理店ばかりでしたがその友人の影響で南インド料理に関心を持つようになり、食べ歩きをしている。
こういう料理に関心を抱いたのは、インド、パキスタン、スリランカなどへ出張したことが影響している。最近は日本食を持ち出して現地でも日本食を食べられる食材の種類が増えたのが影響していると思う。
私が最初に海外出張した1990年頃は、東南アジア諸国では日本料理店も多かったがその他の地域では少なかったこと、和食は日本で食べられるのでわざわざ食べたいとは思わなかったこと、それぞれの国や地域にも美味しい料理があること、その国の食文化を理解することを視野に入れてあれこれ試食してきた。
近所の北インド料理、いつのまにか味が変わっていたり、何度か通った渋谷の南インド料理店、最初は美味しかったが、2度目、3度目と通う度に味が変わっていった。その時に友人が調理人の出身を聞いたが最初の時と違う人、多分、ネパール人ではとのこと。その変化が著しかった。
ネパール人が作るインド料理が不味いというのではなく、南インド料理を食べるつもりで入った南インド料理店の料理がそうでないことが増えてきたということ。ネパール料理店は渋谷桜ヶ丘などにあり、何度も行ったことがあり美味しくいただいた。
「東京のディープなアジア人街 」という本があった、 こういう本には現状の説明があるのだろう、期待してしまう。
現在食べられているリンゴの約90%は、DNA分析によりカザフスタン東部に広がる天山山脈の斜面の森林に自生するマルス・シエウェルシイ(Malus sieversii)という野生リンゴの木であったことがわかっている。
他方、リンゴの原産地はアジア西部といわれ、北部コーカサス地方が有力視されている。
約5000年から1万年前に栽培植物化され、そこから好ましい性質を持つリンゴが徐々にシルクロード沿いに西に運ばれることになったと言われている。
そのテンシャン山脈の麓(遠いが)のカザフスタンの前首都アルマトゥ(ソ連時代はロシア語のAlma-ata)はカザフ語の「リンゴの里」という意味である。
出典:画像はfbより
Canon IXY900IS、2006年10月発売のコンパクトデジカメ、翌年に買ったのかも、デジ一はD100を持っていて併用していた。
使い易くかなり長い期間使っていたが、多分、2017年にRX100を購入したのでお役御免だったと思う。
自動車メーカーもそうだが英国の製陶業も既に英国の会社ではない。
ミントン ハドンホール MINTON Haddon Hall グリーン B&Bプレート
ミントンは、英国の老舗ブランド、1793年創業以来、繊細でいて上質なアイテムが世界中で好まれ、ウェッジウッドと並びロイヤルワラント(王室御用達)として、ヴィクトリア女王に世界で最も美しいボーンチャイナと称賛された歴史もある。
ハドンホールはイングランドの古城、ハドンホール城の壁画とタペストリーをイメージしジョン・ワズワース氏がデザインし1948年に製作されました。
1973年にロイヤルドルトンの傘下になったあとも、ミントンは陶磁器製品を製造していたのですが、2015年、英国洋食器ブランドであるWWRD(ウォーターフォード、ウェッジウッド、ロイヤルドルトン、ロイヤルアルバート、ロガシュカなど)グループの一員となった際に、ミントンブランドは廃止されました。WWRDグループはフィンランドのFiskars社傘下。
オールドノリタケとは、明治時代から第二次世界大戦終結まで、森村組と日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が製造した陶磁器の総称です。日本国内では販売されず、主にアメリカに輸出されたため、アメリカでアンティークとして人気があります。
これはGoogleでのAIの結果、輸出用だけだったのかは不明
オールドノリタケ 刻印と歴史について