Sunday, 2 September 2018

連合国軍最高司令官マッカーサーの演出力

マッカーサーは、1951年、朝鮮戦争をめぐってトルーマン大統領と対立し解任されるが、第2代の連合国最高司令官リッジウエイの名はドイツ占領を担ったクレイと同様に記憶に薄い。

日本で「無制限の権力」を振るったマッカーサーの演出力

http://news.livedoor.com/article/detail/15230341/

原文:
73年前の今日、すなわち1945年8月30日、神奈川県の厚木飛行場に一人の男が降り立った。ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官。当時65歳。権威主義的な人格を持ち、日本占領において絶大な権力を振るったとされている。
 長い年月を経た今でもなお、マッカーサーの名は色あせない。その理由はなんなのだろうか。国際政治学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授は、近著『戦後史の解放II 自主独立とは何か』において、マッカーサーの過剰なまでの自信家ぶりと、その演出力について解説している。(以下、引用は同書より)
 まず細谷教授が紹介するのは、マッカーサーが日本に到着する有名なシーン。副官を務めていたコートニー・ホイットニー将軍は、その場面を次のように記していたという。

厚木飛行場に到着したマッカーサー
「機は飛行場にすべり込み、マッカーサーはコーン・パイプを口にくわえて、機から降り立った。彼はちょっと立ちどまって、あたりを見回した。空は青く輝き、羊毛のようなちぎれ雲が点々と浮んでいた。飛行場に照りつける日ざしでコンクリートの滑走路とエプロン(格納庫前の舗装場所)にはかげろうがゆらいでいた。飛行場には他に数機の米機があったが、そこらにいるわずかな数の武装した連合軍兵士は恐ろしく心細い兵力に見えた」

 これについて、細谷教授は次のように解説する。
「つい少し前まで敵国であった日本に上陸した瞬間の、ホイットニーの心細さと不安、そしてそれに対して新しい統治者として威厳を保ち、威風堂々たる容姿を示そうとするマッカーサーの演出のコントラストが興味深い。マッカーサー自ら、歴史の主人公となることを意識して、入念に準備をした演出であった」

憲法制定と講和条約――米ソ対立が深まる中、戦後日本の新しい「国のかたち」を巡り、近衛文麿、幣原喜重郎、芦田均、吉田茂、白洲次郎らが、マッカーサー、ホイットニー、ケナン、ダレスらと激しい駆け引きを繰り広げる。世界史と日本史を融合させた視点から、日本と国際社会の「ずれ」の根源に迫る歴史シリーズ第二弾。  『戦後史の解放II 自主独立とは何か 前編―敗戦から日本国憲法制定まで―』細谷雄一[著]新潮社
 そして、マッカーサーの回顧録の一節を引き、彼が自らの有する権力の大きさについて過剰な自負を抱き、それを誇示していたことを明かす。
「私は日本国民に対して事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった。私の権力は至上のものであった」

「人格化」された占領

 マッカーサーの名前は、日本人の誰もが知っていた。その圧倒的な威光は、日本にやって来た米国人をも驚かすほどであったという。細谷教授はアリゾナ大学のマイケル・シャラー教授の言葉を紹介する。

降伏文書に署名するマッカーサー(Wikimedia Commonsより)
「日本占領は、その発端から最高司令官と同義語だった。ドイツ占領を管理した人物(ルシアス・クレイ将軍、後にジョン・J・マクロイ)の名前をあげられるアメリカ人はほとんどいないが、東京で最高位についている人物の名前はほとんどの者が知っていた。降伏の7カ月後に日本にやって来たあるアメリカ人は、『占領があまりに人格化されている』ことに驚いたことを覚えている。『あらゆる占領行動、あらゆる政策、あらゆる決定がマッカーサーによるものであった』。彼の名前はいたる所に見られたが、他の幹部の名前はどこにもない。彼も、検閲下に置かれた日本の新聞も、マッカーサー以外の者が政策を形成したなどと示唆することはなかった。事実上たった1人の人物が、『日本人に関する限りアメリカ政府を体現していた』のである」

「天皇以上の威厳」を演出する必要性

 9月2日に横須賀沖のアメリカ戦艦「ミズーリ」で降伏文書調印式が行われた。マッカーサーは、「自由、寛容、正義という人類多数の願望を達成するようなより良い世界が出現することは、私の希望であり、また全人類の希望でもある」と、自らが文明史的使命を帯びていることを意識した壮大なスケールの演説を行う。その背後には、色あせた古い星条旗がたなびいていた。
「それは、92年前にペリー提督が日本に開国を迫ったときに、その旗艦サスケハナに掲げられていたものであった。歴史家の増田弘は、『日本開国の立役者ペリーと自己とをダブらせていたのかもしれない』と指摘する」
 それにしても、マッカーサーはなぜわざわざこのような演出を施したのだろうか。その答えとして、細谷教授はある米軍大佐の次のような言葉を紹介する。
「あれが一つの演技であるとすれば、素晴らしい演技であり、それは必要なことであった。なぜならマッカーサーは連合国軍最高司令官で、しかも天皇を通して日本を支配する役割を担っていた。そこで、天皇以上の威厳を、日本国民に対して示さなければならなかったからだ」
 あの有名な昭和天皇との2ショット写真も、マッカーサーが自らの威光を日本国民に知らしめる演出のひとつだった。
 しかし、あまりにも自己顕示欲が強く、自らの権力に酔いしれたマッカーサーは、朝鮮戦争の指揮をめぐりトルーマン大統領と衝突し、1951年4月に電撃解任される。後任の第2代連合国軍最高司令官としてマシュー・リッジウェイが日本の占領統治に当たったが、その存在感は、ドイツ占領を担ったクレイ将軍らと同様、薄いものであった。
 終戦から73年が経過した今、もはやリッジウェイの顔をすぐに思い浮かべられる日本人はほとんどいない。しかし、マッカーサーの過剰なほどの演出に強烈な印象を植え付けられた日本人は、それとともに「対米従属」という認識を植え付けられたのではないか

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 国際政治学者で慶應義塾大学法学部教授の細谷雄一氏と、インターネット配信番組「国際政治チャンネル」でともに活動する篠田英朗氏のトークイベントが、9月27日(木)19時より、東京・神楽坂にあるキュレーションストア〈la kagu〉にて開催される。詳しくは
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01cfmdzqbh2i.html

2018年8月30日 掲載

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