Tuesday 26 June 2012
目黒通り沿い地下鉄計画と都営6号三田線
目黒通り沿いに都営6号線(三田線)の延伸に関係して地下鉄を建設する構想が今から約40数年前の昭和43年(1968年)にありましたが、昭和60年(1980年)の答申で変更され、実現には至っていません。しかし、その経緯がどうだったのか、掘り下げてみました。
抜粋:
英語の論文だったのでしょう、タイトルが英語ですが港北ニュータウンに関する内容です。その中で「東京6号線のルートを目黒 - 都立大学 - 等々力 - 武蔵新城 -北山田 - センター北 - センター南 - 都筑ふれあいの丘 - 中山」と明記している。(財団法人日本都市計画学会「KOH NEW TOWN COMMUNICATION STUDIES 1971-1972」)
都営6号線(三田線)計画
目黒通り沿いの地下鉄計画は、都営6号線、現在の三田線の延伸ルートとして検討されました。そもそも、6号線自体の計画も直通運転を行おうとしていた東武東上線や東急線との関係で紆余曲折の経緯をたどります。
1957年(昭和32年)の建設省告示第835号「東京都市計画高速鉄道網」で5号線(現在の東京地下鉄東西線)の分岐線として示された大手町-下板橋間の計画が6号線〈三田線)計画の始まりとなっている。
1962年(昭和37年)の都市交通審議会答申第6号において分岐線は6号線として切り離され、その後、5号線を営団が、6号線を東京都が建設することになった。本答申では、6号線は西馬込方面より五反田・田町(三田駅)・日比谷・春日町・巣鴨および大和町(後の板橋本町駅となる付近)の各方面を経て上板橋および志村(現:高島平駅)の各方面へ至る路線として示された。
軌間も1435mm(標準軌)を採用予定で、西馬込 - 泉岳寺間と馬込検車場(現・馬込車両検修場)は浅草線と共用する予定であった。
都営6号線(三田線)の延伸として 三田-泉岳寺-桐ケ谷-大井町線案
1964年(昭和39年)の答申により、泉岳寺 - 西馬込間は1号線(浅草線)の分岐線とし、6号線は泉岳寺から別線(東急泉岳寺線の路線名)で桐ヶ谷へ延伸し、池上線を経由して田園都市線(当時、現在の大井町線)と接続するように改訂された。
また、これに伴い軌間も1067mm(狭軌)に変更された。その後、東武から「上板橋を乗り入れ改良する余裕がない」との申し入れがあり、東武が志村駅-大和町駅間の連絡線(東上本線支線)を建設して接続する計画に改められた。また馬込検車場の共用ができなくなったため、三田線には専用の車両基地が必要になり、新たに志村検車場を計画に加えた。
上記の経緯から、当初、路線や車両の規格を決定する際、三田線は車体寸法や保安装置などの面で東武鉄道の規格が踏襲された。
1965年(昭和40年)、東武東上線は8号有楽町線に 東急田園都市線は11号半蔵門線に両社とも距離的にも時間的にも乗客の利便増進に資するとの判断により、乗り入れを目指す計画に変更され(池上線の計画は実現せず)、三田線の直通計画は宙に浮いてしまった。
泉岳寺以南は五反田駅まで1号浅草線と併走し、東急側が戦時中に廃止していた桐ヶ谷駅(大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間)を大崎広小路駅の代替として復活 し、池上線と接続し、旗の台駅で大井町線に接続、そのまま田園都市線に直通する構想であった。その場合の折り返し駅は長津田駅で計画されていた。昼間時は 長津田 - 泉岳寺 - (三田線) - 和光市 - 上福岡で直通列車を運転する予定であった。
三田線(6号線)の延伸として 三田-目黒‐都立大学‐等々力‐港北ニュータウン案
三田線の三田駅以南の計画が未定のまま、高島平-三田間の工事が進められた。
1968年(昭和43年)の都市交通審議会答申第10号において、6号線は、桐ヶ谷方面 - 大和町方面が、大宮市西部…浦和市西部 - 清正公前(現・白金高輪駅)…港北ニュータウン(横浜市)間に改められた。
1971年の港北ニュータウン計画当初には、計画の中に都営地下鉄6号線を西馬込から港北ニュータウンを経由して中山駅まで延伸する計画が盛り込まれてい た。当時の港北ニュータウン計画では横浜市営4号線とともに東京6号線が鉄道計画の根幹をなしており、かなり具体的な駅の設置場所とともに東京6号線の延伸が必須であるという書き方がなされている。
1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は目黒止まりとなり、東急目蒲線(仮称・東急都心線、現在の目黒線)と相互乗り入れすることが確定し、三田線の港北ニュータウン延伸計画は撤回となった。
この結果、東急との乗り入れは当初計画の泉岳寺線・池上線・田園都市線から目黒線へと路線は変わったものの実現することになり、最終的に東京6号線は西高 島平駅 - 目黒駅という路線を形成することになった。港北ニュータウン地区への鉄道接続については、2008年6月22日に乗り入れ先の東急目黒線が武蔵小杉駅から 日吉駅まで延伸し、横浜市営地下鉄グリーンラインが日吉駅から港北ニュータウンを経由し横浜線中山駅までを接続する形で実現された。
東急電鉄が潰した目黒通り沿いの地下鉄計画
目黒駅から都立大学、深沢、等々力を通り、最終的に多摩川を越え大規模住宅開発が計画されていた港北ニュータウンへ接続されるのルートでしたが、1985年、昭和60年の運輸政策審議会答申第7号で都営6号線(三田線)は目黒駅止まりとし、それ以遠は目蒲線と接続し東横線日吉駅まで延伸することが決定された。
通説では、当時、地下鉄計画路線計画と競合するバスや鉄道(目蒲線)を運営していた東急電鉄 (五島慶太)の政治的な圧力により目黒駅以遠については目黒通り沿いの三田線地下鉄路線建設が目蒲線(現在の目黒線)への乗り入れ接続にすり替えられてしまい、最終的には、東急目黒線(目蒲線)を東京メトロ南北線と都営三田線に直通運転させる計画に変更させてしまう。
その背景は、地下鉄が開通した時の東急電鉄や東急バスへの負の影響と推察され、東急電鉄は公共性の高い民間交通機関ではありますが一企業の利益が優先され公共の利益が蔑ろにされたということは残念の極みですが、これが現実社会です。
このような経緯から、目黒通り沿いや深沢・等々力はバスが主体の公共交通しか整備されず、当然ならがバスの運営会社は東急バスなのです。
地下鉄建設計画は消えてしまいましたが、目黒通りの延伸は進んでいるようです。目黒通りは多摩堤通りで終わっているがその延伸として多摩川に橋を架け、目黒通りを川崎市の都市計画道路宮内新横浜線へ接続する計画がある。供用開始はは2021年3月(平成33年)を予定している。
http://residencewatch.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
白金高輪駅の駅名
平成元年(1989年)、都営6号線(三田線)の三田駅以南の事業免許の申請が行われた。その時は、三田 - 清正公前という駅名だったが、現在は白金高輪駅となっている。三田線・南北線に白金台駅があるし、浅草線に高輪台があるのだから、清正公前のままで良いのにわざわざ白金と高輪を組み合わせる必要があったのか、疑問に思う。駅の場所が丁度白金と高輪の境界上に位置することは事実であるが、ここは清正公前というバス停があるのだから素直に清正公であってほしかった。
現在の東京圏の鉄道整備計画
都市鉄道の建設は、運輸政策審議会で答申され事業が進められますが、この地区では目黒線・南北線直通運転以外は見当たりませんね、新たな地下鉄建設は現時点では無いということです。
東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(運輸政策審議会答申第18号、平成12年1月27日)
http://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/mokuji_.htm
関東1都6県の鉄道の将来-東京圏鉄道整備計画
http://pref7.so.land.to/newline2.htm
参考:
http://residencewatch.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
(wiki情報他を抜粋して編集しています。)
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