Monday, 31 August 2009
ウズベキスタンの日本人抑留者と墓地
市内南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角が日本人墓地として整備されている。
第二大戦直後、中国東北地 方、樺太や北方領土にいた日本兵約65万人(定説)がスターリンの指示により強制的にシベリアに抑留され長年労働を強いられた。厳しい環境の下、約6万人 の命が失われた。山崎豊子の不毛地帯を読むとその厳しさがよくわかる。ウズベキスタンでは、そのうち2万3千人の抑留者が強制労働に従事し、817名がウ ズベキスタンで帰らぬ人となっている。
ヤッカサライ墓地には、タシケントより79名、タシケント地区墓地より8名、計87名の日本人が 眠る。隣接してドイツ人墓地がある。碑には1990年5月23日、もうひとつに碑には1995年10月1日の日付が刻まれている。
ウズベキスタン国内ではタシケントの他にタシケント州アングレン市、フェルガナ州コーカンド市、フェルガナ州フェルガナ市、アンディジャン州アンディジャ ン市など13ヶ所に日本人墓地がある。タシケント第四ラーゲリーの 約500人の抑留者がウズベク人やロシア人とともに建設に従事し工事が中断していたナボイバレエ・オペラ劇場(タシケント)が1947年に竣工したことは よく知られている。
ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル,観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築である.日本人抑留者は,土木,煉瓦積み,彫刻,鉄工,配線,大工,左官,電気溶接,測量など多岐にわたっていた。
この写真は、8月1日に有志で墓参にいった時のもの、毎年8月15日は日本人会による墓参が行われている。
干上がったアラル海 Moynakムイナック
1996年2月初旬、アラル海への視察予定が天候(ブリザード)のためウルゲンチ空港のヘリコプターの中で中止になった。あれから13年、今週末に駆け足でアラル海の元漁港(1960年当時)であるムイナックまで足を伸ばし、干上がったアラル海を視察した。
Nukus:
ウズベキスタンにある西部に位置する自治共和国、カラカルパキスタン共和国の首都、アラル海へのゲートウエイである。タシケントから飛行機で1時 間10分、こじんまりとした空港は空港らしく賑わっていた。NukusからレンタカーでMoynakまで片道210kmを日帰りで往復した。途中、 Mizdahanというイスラム遺跡にも立ち寄った。
Moynak and The Aral Sea:
想像していた以上に厳しい環境のようだ。ここには水面はもうない。1960年代から水位が低下し70年代後半には漁港としての機能は消滅した。現 在は、異物のように赤錆びた漁船が砂の上に並べられているに過ぎない。干上がったアラル海の塩分を含んだ微粒子が風と共に舞い、町全体がガスがかかってい るように見えた。現在の水面はここから120-140kmもさきになるという。
世界第4位の面積を誇ったアラル海、水位の低下に伴い環境が激変、そこに生息していた魚類、漁業や関連産業を生業としていた人々は水位の低下と共に消え去ってしまった。このドライアップは人類が破壊した最大級の環境破壊と報告されている。
Saturday, 22 August 2009
Wednesday, 12 August 2009
米兵が撮った1945年の東京
昭和毎日
1945年秋、東京で撮影された写真43枚が62年ぶりに米国から日本に里帰りした。米シカゴ生まれで太平洋戦争中、米空軍写真偵察隊所属だったクリフォード・マッカーシーさんが撮影したもの。
http://showa.mainichi.jp/photo/2008/06/post-a036-43.html?inb=yt
1945年秋、東京で撮影された写真43枚が62年ぶりに米国から日本に里帰りした。米シカゴ生まれで太平洋戦争中、米空軍写真偵察隊所属だったクリフォード・マッカーシーさんが撮影したもの。
http://showa.mainichi.jp/photo/2008/06/post-a036-43.html?inb=yt
Firefoxの起動が遅い
現行バージョンは3.5、以前のバージョンも同様、使い込んでいくうちに起動に1分以上かかっていた。
その対策として以下を実施、通常起動時間になった。
プロファイルの新規作成
http://wiki.mozilla.gr.jp/wiki.cgi?page=chart#p13
その対策として以下を実施、通常起動時間になった。
プロファイルの新規作成
http://wiki.mozilla.gr.jp/wiki.cgi?page=chart#p13
Saturday, 8 August 2009
タシケントのナボイ劇場と日本人抑留者
正式には「アリシェル・ナボイ国立アカデミー・ボリショイ劇場」
ナボイ劇場前の噴水の水は夏季には清涼感を与えてくれる。
建物左横にカリモフ大統領の名が刻まれた碑がある。
「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で記されている。
ウズベキスタンには第二次大戦後、ソ連によって約2万5千人の日本人抑留者が満州および極東から強制移送され、水力発電所や運河、道路などの建設事業に従事した。
日本人抑留者が従事した事業の代表の一つが約5百人の抑留者によって2年がかりで建設したナボイ劇場である。レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行ったという。
タシケント日本人墓地
http://ca.iio.org.uk/uz/uz-tashkent_japanse_cemetery.html
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