3月15-17日に草津温泉に滞在する機会があった。社会人一年生の時にたいへんお世話になった勤務先の社長だったMさんから、草津にリゾートマンションがあるので3月中旬にとお誘いをいただいた。
草津温泉やリゾートマンションなどこれまで縁が無かった。それは20代後半から海外業務に従事することになり、日本の現状を知らず体験せずだったことから、国内各地へ赴く機会を逸したままで国内事情に疎くなってしまっていたのだ。
学生時代、世間知らずのまま悶々と過ごしてしまい、実社会に出て社会の現実に直面、その時にMさんから世の中の現実や物事の考え方などを教示していただいた。今振り返ると、最初の社会人経験がその後の私の人生の根幹に影響を与えたのではないかと考えている。
草津温泉は室町時代から三名泉(草津、有馬、下呂)としてその名が知られ自然湧出量では日本最大の温泉である。江戸時代の温泉番付では東大関(横綱は明治以降の番付)と最高位に位置付けられていた。源泉は万代鉱源泉など6箇所で酸性泉である。万代鉱は硫黄鉱山だったようだ。
草津町の人口5839人(2025/3/1)、観光客数401万人(2024年、過去最高、リゾートマンション戸数約6000戸(と聞いた)、そのほとんどがバブル期に建設された。近年、新規ホテルも、星野リゾートなど、建設中だった。これは旺盛な観光需要を反映してのことだろう。
地理的にも認識していなかったが、草津温泉は草津白根山、白根山の手前だが、その先の長野県側が志賀高原である。学生時代に2回ほど熊野湯にスキーに行ったことがある。草津温泉街は標高1100~1200mの高地に広がっている。その周辺の標高が高い土地にリゾートマンションがカラマツ林の中にニョキニョキと建っている。北西部には、草津白根山(2,160m)、本白根山(2,171m)、逢の峰(2,110m)が聳え、上信越高原国立公園に指定されている。
リゾートマンションは1980年代中頃から1990年初頭まで、バブル経済絶頂期に建設されたのがほとんどで、これらを実際に目にするのは初めだった。苗場などのリートマンションはバブル崩壊とともに投げ売り状態だったと聞いているが、草津温泉のそれは、30年を経てもしっかり維持管理がされ、継続的に利用されているようだ。
草津温泉を有名にしたのは明治初期のドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツと英国人のコンウォール・リーであり、火傷やハンセン病などの温泉治療所として整備が進められた。エルヴィン・フォン・ベルツは明治9年(1876年)に東京医学校(後の東大医学部)の教師として来日し「ベルツの日記」を著し、明治初期の日本の様子を西洋に紹介した。また、日本の温泉を世界に紹介している。そして、「日本鉱泉論」を著し、温泉地を衛生的に改善する提案を行なっている。また、箱根、草津、伊香保などに西洋医学を取り入れ温泉治療所を設けるよう内務省に提案している。
コンウォール・リーは英国聖公会の宣教師として1907年来日し、東京を中心に8年間活動した後、1915年に草津のハンセン病支援団体からの要請で草津温泉を視察、以降、多くの療養施設を立ち上げ、ハンセン病患者のために患者のための生活・教育・医療に力を注ぎ、草津温泉がハンセン病の湯治場としての地位が確立された。
(wikiを参考)