タシケント中心部の大通り、ウズベキスタンホテルの裏側に位置する、右側のアパートは今もある。写真は1970年代。現在のシャフリサブス通り。
A Boulevard Pervomaskaya, Tashkent in 1970s. Now it is called Shakharisahz Boulevard.
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タシケント中心部の大通り、ウズベキスタンホテルの裏側に位置する、右側のアパートは今もある。写真は1970年代。現在のシャフリサブス通り。
A Boulevard Pervomaskaya, Tashkent in 1970s. Now it is called Shakharisahz Boulevard.
ブラショフはブカレストから約150km北に位置する、中世ドイツ様式の街並み残るトランシルヴァニアの都市である。1999年12月にブカレストの仕事が概ね終わった週末にトランシルヴァニアを1泊2日で駆け足で巡る機会があり、ドラキュラ城の後に数時間滞在した。運転手のジョージの古巣で旧市街を思い出を聴きながら歩いた。
ブラショフは1211年にハンガリー王エンドレ2世によってドイツ騎士団に与えられハンガリー国境を守るための要塞をブルツェンラント(ドイツ語: Burzenland、ハンガリー語:Barcaság )にブラッソヴィアという城塞を築かせた。ブラショフはその名に由来するが、ドイツ語名はクローンシュタットKronstadtという。
ハンガリー大公のゲーザが973年に神聖ローマ皇帝に宣教師の派遣を依頼してマジャール人へのキリスト教布教を認めた。息子にも洗礼を受けさせ洗礼名イシュトヴァーンとなった。父の死後、ハンガリー統一を進め、1000年12月25日、ローマ教皇のシルウェステル2世から授かった冠を用いて、ハンガリー王イシュトヴァーン1世としてエステルゴムで戴冠式を行い、正式にハンガリー王国となった。
王国は北部のスロヴァキア(モラヴィア)、南部のクロアチアのスラヴ人を支配下に入れ、さらにルーマニアのトランシルヴァニアにも勢力を伸ばした。以後、その一族であるアールパード朝による統治が300年続いた。
ハンガリー王ゲーザ2世(1141年-1162年)によって、ドイツ人によるトランシルヴァニア植民が始められた。その目的はハンガリー王国の南東部国境地帯の防衛で植民は13世紀終盤まで続けられた。植民者は神聖ローマ帝国西部出身者がほとんどで、全般的にフランケン方言(アーヘン、ケルン、トリアー周辺で話された)を話していた。彼らは集団名ザクセン人と呼ばれていた。その末裔がトランシルバニアザクセン人となる。
2024年11月8日、日本とトルコの国交樹立100周年を記念して、トルコのオスマニエ工業団地で安倍晋三総理の銅像除幕式が、安倍晋三公園と名付けられた公園で行われた。
https://x.com/miyafh/status/1855879222356558200
日本大使館
https://x.com/japonyabe/status/1854885102532104617?s=46&t=ClaYi91y6SrPNv0t6mmrlQ
確か、ボスポラス海峡海底鉄道トンネルのマルマライ(円借款供与事業)の開通式に安倍首相がエルドアン大統領と同乗した映像が報道されたと思う、運転席だったかも。
その他、日本トルコ関係、
トルコ人監督による「平明丸 母国トルコへ帰るとき」と名付けられたドキュメンタリー映画が制作されたことをきっかけに、この事件が知られるようになったのだ。作品はトルコだけでなく日本でも上映された。さらにエルドアン大統領が2019年6月、G20大阪サミットに出席した際に次のように発言したことが、津村中佐の知名度を一気に高めることになった。
https://x.com/miyafh/status/1855879222356558200報道されたと思う、運転席()()だったか
Goar Gasparyan、ソ連時代に2度来日したオペラ歌手
https://www.facebook.com/share/r/RUM9BTZ5QTb1JXrh/?mibextid=UalRPS
アルメニア人オペラ歌手 Gohar Gasparyan、ソ連時代、公演旅行で二度、1959年と1964年に来日公演を行っている。ソ連人民芸術家(Наро́дный арти́ст)
https://eastriver229.blogspot.com/2014/12/gohar-gasparyan.html
AirTag、車のキーにこれを付けていれば、と。
今ごろ認識した。昨年の大晦日、実家で畑仕事から戻って車のキーが無いことに気が付いた。自分の動いた経路を畑を含めて探し回ったが見つからず、元旦に新幹線で自宅のスペアキーを取りに戻った。
こういうの、商品化されていて当然だと思っていたが、まさか自分が車のキーを失くすとは考えていなかった。実家だし、普段は畑へ行く時はポケットから落ちる可能性があるので財布も持ち歩かないのに。
AirTag, 2021年4月30日の発売だったようだ。認識していなかった。MBのキー、スペアを作るのは高いのよね。残りに付けておかないと。
本体4,780円、4個パック15,980円。キーホルダー、高いね、本体よりも。
https://www.apple.com/jp/airtag/
Unter den Linden(菩提樹の木の下通り)とブランデンブルク門、ベルリンの大通りと空爆で倒壊したベルリン市街地、ベルリン陥落直後だろう。ベルリンの壁は門の下側に1961年になってから建設される。
写真はTiergarten上空からだろう、第二次世界大戦後、東西ドイツに分裂したため前方が東ベルリン、後方が西ベルリンとなった。右後方、Tiergartenに面して大日本帝国大使館があった、西ドイツ時代も日の丸が掲げられていたが大使館は首都ボンに移転。東西ドイツ統一後、首都がベルリンに戻り、旧大日本帝国大使館の建物は日本大使館として使われている。
先日いただいたアルメニア🇦🇲のSweet Sujukh, sharotとも言うらしい。sujukhだけだとソーセージの意味のようだ。スイーツなのでSweetを付けるとソーセージ型をしたお菓子(キャンディ)となるようだ。
米国🇺🇸ではsnickersスニッカーズという。クルミを紐で繋げてモラレス、シュガー、シナモンなどをキャラメルに混ぜ紐で繋いだクルミにコーティングして作る。市場やショップの軒下に吊り下げられ売られていた。
Kraków, Poland by Train. ポーランドの高速鉄道でクラコフへ、2016年10月1日
クラコフです、最初に来た1980年代はワルシャワから夜行列車で早朝5時台に着き、8月初旬だったと思う、お腹の具合が悪く駅のトイレに駆け込んだ、水が流れなくて身振り手振りで説明したら大きなおばちゃんがバケツに水を持ってきて流してくれた。7時頃のバスでオシビエンチウムへ向かった。
時は流れ、今回乗ったのはポーランド国鉄最速の列車、160km/h程度、運行を開始して2年ほど(2014年12月運用開始)、ワルシャワから所要約2時間、150PLN。
FB、日本語ではクラコフ中央駅と表示されますがポーランド語のGłównyはmainという意味、ワルシャワだけが中央駅(Centralna)です。ショッピングセンターに降り立った様な印象、すごく良いお天気で汗ばみますが、このお天気は明日まで、月曜から雨の予報。
初めて海外へ行った1983年2月だった、ロンドンに着いて数日後にビクトリア駅から夜行鉄道でFolkstoneへ、そこからドーバー海峡をフェリーで渡り(乗車したままだったか?)、ベルギーのOstendeに早朝着き、鉄道ですぐ近くのブルージュ駅迄行き、駅から旧市街まで歩いた。そして、真冬で水面は凍っていたが写真のような美しい街が視野に入ってきた、感動の連続だった。
後に、1985年に写真のような夏季のブルージュを観たくて再訪した。